日本医学はドイツ医学が手本
医学用語の多数は、ギリシア語に由来します。これはヨーロッパが古代ギリシア医学を基礎としていたことを示しています。日本では、医学用語はカルテやギブスなどに代表されるようにドイツ語が使われ、歴史的にわが国がドイツの医学を模範にしたことによります。日本の医学史をたどってみると、古くは中国の影響を強く受け、江戸中期から西洋医学に大きく転換しました。中国医学の伝来と日本での発展
中国医学は、5~6世紀頃に仏教や他の文化とともに半島を経由してわが国に伝来しました。中国医学の基本は「気」であり、身体の構造を「五臓六腑」と「経絡」で表し、その状態を「陰陽」「五行」で表します。心身は、陰と陽の調和で健康が保たれており、バランスが崩れると病気になるという考え方です。 わが国は、大陸から断続的に伝来する中国医学をもとに独自に医学を発展させ、その医学は後に漢方とよばれるようになりました。医師としては本道(内科)と瘍科医(外科医)や鍼灸医がいました。西洋医学との出会い
医療が大きく変化するのは江戸中期になってからで、西洋医学導入の方向に急激に進んでいきます。それは激動の幕末、負傷者や疫病に対処するには漢方は無力であることを認識し、西洋医学の必要性を自覚したことによります。寛永18年(1641年)から安政の開国まで、出島のオランダ商館にはのべ63名の医師が診察を行っていました。 その中にドイツ人外科医のシャムベルケやシーボルトがいて、彼らは日本人医師や学者に講義しました(例:シーボルトの鳴滝塾、図1)。長崎で医学を習得した医師は蘭方医とよばれ、彼らは蘭方医学塾の設立や、蘭学書を翻訳するなどして西洋医学を広めました。前野良沢と杉田玄白は、ヨハン・アダム・クルムスのドイツ語医学書の蘭訳本を和訳して『解体新書』を発行したことはご存じかと思います。 幕末は、オランダから医学のみならず、イギリスからの西洋医学もありました。その医師はウィリアム・ウィルスで、駐日英国公使館の医官として1862年に来日しました。彼は生麦事件など、幕末のさまざまな歴史的事件や戊辰戦争で多くの人命を救いました。明治維新と医学の近代化
明治に入り、政府は西洋医学をより積極的に吸収するため、相良知安と岩佐 純の提案に従い、ドイツ医学を模範とすることを決定しました。東京医学校(現・東京大学)にドイツ人医師を招聘するとともに、明治3年(1870)に国費留学生9名をドイツに派遣しました。北里柴三郎、志賀 潔、佐藤 進、森 鴎外もドイツに国費留学しました。その後も、明治から昭和の初めにかけて多数の医師はドイツに留学し、多くの大学や病院で後進の指導にあたりました。ドイツ医学選択を進言した相良知安
佐賀藩出身の蘭方医である相良知安は、「ドイツ医学こそ世界最高水準である」と進言し、日本の医学の方向性を大きく左右しました。相良は第一大学医学校(現・東京大学医学部)の校長や文部省初代医務局長に就任しましたが、イギリス医学推進派からの反発で、わずか5年で辞職に追いやられました。医務局長の時期には新しい医療制度の草案を作成していましたが、それを基にした医制略則76ヶ条が次の医務局長の長興専斎によって提出されました。これをきっかけに、日本の医療行政は著しく進歩していきました。日本の近代医学への道を形成した名医たち
1)華岡青洲 世界で初めて全身麻酔下で乳がんの手術を成功させたことでよく知られています(図2)。欧州では乳がんを手術していることを知り、手術に麻酔が必須と考え、マンダラゲにトリカブトなど数種類の薬草を配合した「麻沸散(別名:通仙散)」の開発に成功しました。通仙散を用いた全身麻酔下で約150症例の乳がんの手術を行いました。華岡の住居兼診療所「春林軒」には、多くの若い医師たちが集まり、医術のみならず「医の心」を伝授しました。 2)緒方洪庵(適塾) 緒方洪庵によって大阪・船場で生まれた適塾は、大村益次郎や福沢諭吉などが塾頭を務め、25年間で3,000人の入門生(長興専斎も門下生の一人)がありました。適塾は浪華仮病院および仮医学校に移行し、最終的に大阪大学になりました。 3)和田塾(順天堂) 佐藤泰然が江戸日本橋薬研堀で開いた和田塾は後に千葉・佐倉に移り、順天堂を設立しました。佐藤尚中、佐藤 進と受け継がれた順天堂は一貫してわが国の外科の進歩に貢献しました。佐藤 進は、政府海外渡航第一号としてドイツに留学した後、軍医監として負傷者の治療にあたり、また彼が著した『外科各論』が広く読まれました。 4)高木兼寛(慈恵医大) 海軍軍医総監であった高木はドイツ医学でなく、イギリス医学を実施した医師です。当時、国民を苦しめていた脚気は、鈴木梅太郎によって明らかにされたビタミンB1欠乏症ですが、多くの医師は感染症と考えていました。日清戦争のなか、陸軍の死者数の30%が脚気で死亡した一方で、海軍はイギリス医学の栄養管理を重視し、脚気に対して食事を麦に変更するなど適切な治療を行いました。高木はエジンバラ大学に留学後、東京慈恵会医科大学を設立しています。 5)北里柴三郎 北里柴三郎は、熊本藩の西洋医学所で蘭学にふれたことで医学に興味をもち、23歳で上京し、東京医学校(後の東京大学医学部)に入学しました。1886年から6年間、ドイツのベルリン大学に留学し、ロベルト・コッホに師事しました(図3)。北里は破傷風菌の純粋培養に成功し、エミール・ベーリングとともに血清療法の画期的な治療法を提案しました。帰国後、北里は福沢諭吉らの援助により伝染病研究所を設立し、所長に就任し、翌年には日本最初の結核専門病院(土筆ヶ丘養生園、現・北里研究所病院)を開設し、結核予防と治療に尽力しました。1914年、伝染病研究所の移管問題に反発して所長を辞任した北里は、私費を投じて私立北里研究所を設立しました。なお、伝染病研究所は東京大学医科学研究所に移行しました。1917年には慶応義塾大学医学科の創設に尽力し、1923年には日本医師会を創設して初代会長に就任しました。 北里柴三郎は、細菌学者としてだけでなく医師、教育者としても大きな貢献をしました。伝染病研究所や北里研究所で育った著名な研究者として赤痢菌発見者の志賀 潔、梅毒の特効薬サルバルサンを創薬した秦 佐八郎、ハブ毒の血清療法を確立した北島多一、寄生虫病で多大な業績をあげた宮島幹之助、黄熱病の研究で有名な野口英世などがいます。図1 シーボルトは「鳴滝塾」を開設し、日本人医師や学者に西洋医学を講義しました(生成AIにて画像作成)。
図2 華岡青洲は世界で初めて麻沸散という薬を用いて全身麻酔で乳がんの手術に成功しました(生成AIにて画像作成)。
図3 北里柴三郎はドイツに留学、ロベルト・コッホに師事、破傷風菌の純粋培養に成功しました。コッホの研究室で開発された細菌培養法や器具は、現在もなお用いられています(生成AIにて画像作成)。
著者白砂 兼光
九州大学名誉教授
略歴
- 1970年 大阪歯科大学卒業。大阪大学歯学部第1口腔外科に入局。
- 1981年 大阪大学歯学部附属病院講師
- 1082年 西ドイツビュルツブルグ大学助手
- 1987年 大阪大学歯学部第1口腔外科助教授
- 1995年 九州大学第2口腔外科教授
- 2000年 九州大学大学院教授
- 2009年~2011年 広島大学大学院特任教授(医歯薬研究科)
- 2009年 九州大学名誉教授
- 日本口腔科学会名誉会員 元副理事長
- 日本口腔外科学会名誉会員
- 日本頭頸部癌学会 元理事
- 口腔顔面神経機能学会 元理事長
主な著作 『口腔外科学』(医歯薬出版株式会社)
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