歯科医院がない地区が多い岩手県下閉伊郡岩泉町では、1993年から巡回歯科診療車が地域の歯科医療を支えています。そんな岩泉町は、2011年の東日本大震災、2016年の台風10号と、短期間のうちに2つの大きな災害に見舞われました。医療資源が乏しい町だからこそ、平時から災害時まで巡回歯科診療車が果たしてきた役割は計り知れません。「岩泉町国民健康保険岩泉歯科診療所」の岩田信浩所長と扇田里美歯科衛生士に、日々の巡回の様子や災害時における歯科の役割について伺いました。
岩手県下閉伊郡岩泉町
岩泉町国民健康保険岩泉歯科診療所
所長 岩田 信浩 先生/歯科衛生士 扇田 里美さん
どこであっても歯科診療を提供できることが最大の強み
-- 岩泉町で歯科診療車が導入された経緯を教えてください
岩田:岩泉町は岩手県の中央部から東部にかけて位置し、町としては本州最大の面積を有しながらも、かつて歯科医院が一軒もない時代がありました。隣町の歯科医院に通うにも片道何時間もかかるような状況の中で、各地区の住民から歯科医療を求める声が高まり、1993年に導入されました。
2代目となる現在の歯科診療車。初代はバスベースだったが、2代目ではトラックベースを採用。トラックベースは設計の自由度や高さが利点。後部には車椅子の昇降リフトが設置されている。
2代目の歯科診療車の企画は株式会社モリタ製作所が行った。
-- 通常の外来診療も行っているのでしょうか
岩田:現在は巡回診療と訪問診療のみです。巡回診療は基本的に火曜日から金曜日に実施し、町内7つの地区にある町役場の支所や福祉施設の駐車場などを借りて行っています。
診療車内に掲示されていた巡回診療の日程表。右側が医科、左側が歯科の日程で、2枚セットで巡回先の施設に掲示される。診療は町役場の支所や福祉施設の駐車場を間借りして行われる。
-- 岩泉町国保岩泉歯科診療所は一般の歯科医院とは違うのでしょうか
岩田:いわゆる「国保の歯科診療所」と呼ばれる、自治体が直営する国民健康保険診療施設です。岩泉町のように人口が少ない地域では、民間だけで医療体制を維持することは困難です。そこで医療格差を解消するために、自治体が医療機関を直営するケースがあり、医師や歯科医師が公務員として携わっています。当診療所の事務所は町役場内にあり、私自身も公務員歯科医師です。
-- 通常の歯科医院での診療と歯科診療車での診療には、違いはあるのでしょうか
岩田:診療車は歯科医院をそのまま車内に再現しているので、診療自体に大きな違いはありません。チェアユニットが2台あり、パノラマ撮影は行えませんが、X線室も完備し、一般的な歯科治療は基本的にすべて行うことができます。どこであっても通常の歯科診療を提供できることが、この歯科診療車の最大の強みです。
診療車内の様子。2台のチェアユニット、デンタルX線撮影装置をはじめ通常の歯科診療に必要な器材はほぼ完備されている。運転席の後部には会計事務などを行うパソコンやプリンターも完備され、まさに「移動型歯科医院」と言える。
普段から患者さん第一に考えていなければ、災害時には行動できない
-- 岩泉町は2011年に東日本大震災、2016年に台風10号の豪雨と、短期間のうちに2度の大きな災害を経験しています。当時、業務への影響はどのようなものでしたか
岩田:東日本大震災のときに被害が大きかったのは海沿いの地域でした。町役場は比較的標高が高い場所にあり、海からも離れていたため、業務自体は割と早くに再開することができました。一方で台風10号の際は、このあたり一帯の道路が寸断され、大型車である診療車を走らせることができず、乗用車での巡回診療に切り替えて対応しました。
-- 震災の発生時はどのような様子だったのでしょうか
岩田:デイサービス施設の駐車場で巡回診療を行っている最中でした。これまでに経験したことのない大きな揺れでしたが、まさかあんなに大きな津波が沿岸部に押し寄せているとは思いませんでした。津波の被害を受けた小本地区は巡回先のひとつで、当診療所の患者さんも何人か亡くなりました。震災の話は、今でも胸が痛みます。
扇田:私の自宅は隣市の宮古市にあり、海の近くです。地震の発生直後から胸騒ぎがしていました。いつも海沿いを車で帰るのですが、その日は津波の影響で通行止めになっていて、帰宅できませんでした。電話もつながらなくて、家族の安否さえわからずに、その日は友人の家で一晩を過ごしました。翌朝、山道を使えば帰れるかもしれないと思い、ガタガタの道を自宅の方角へと車を走らせました。本当に家にたどりつけるのかもわからないまま走り続けていると、偶然、私を探しに来た夫と出会い、そこで家族の無事を知りました。ただ、安堵したのも束の間、開けた場所に出て、自宅の方を見渡すと、焼け野原のような光景が広がっていました。本当に何もかもがなくなっていて、言葉を失い、ただ呆然となりました。
岩田:自宅をなくし、これからの生活がどうなるのかもわからない状況なのに、彼女は数日後には診療所に駆けつけてくれたんです。
扇田:岩田先生と連絡を取らなきゃと思っていたのですが、とにかく電話がつながりませんでした。すると、一緒に避難していた従兄弟が「山の上に電波塔があったはずだ」と言い出して、みんなで向かいました。1時間くらい山を登ると、ようやく電話が通じ、診療所の様子を知ることができました。「一刻も早く向かいたい」と気ばかり焦りましたが、私が診療所に行くための自家用車のガソリンがありません。そこで何時間も並んでようやく2,000円分のガソリンを手に入れて、急いで現地に駆けつけました。
岩田:私一人が対応するだけでは限界があったため、彼女が来てくれたことには本当に感謝しかありませんでした。もし私が彼女と同じ立場だったら職場を優先することなど、とてもできなかったと思います。そのプロ意識に頭が下がりますし、彼女は日頃から患者さんを第一に考えて業務にあたっています。普段のそうした行動があるからこそ、災害時であっても患者さんに寄り添えるのだと、私は彼女から教わりました。
扇田:私はあのとき、診療所に駆けつけて良かったと思っているんです。じっとしていると、悲しすぎて…。ただ、私の場合は家族も無事で、親戚の家に避難ができて、従兄弟の家族もいて、子どもは小さかったけれど、誰かが面倒をみてくれる環境にあったので仕事に専念できました。これが少しでも状況が変わっていたら、私もどうだったかはわかりません。
歯磨きが後回しになることが避難所の課題
-- 設備が整った歯科診療車は、避難所で大きな役割を果たしたのではないでしょうか
岩田:診療車には発電機を2台積んでいて、電気がなくても通常の治療が行えたので、皆さんに驚かれました。診療車の存在を知っている歯科医師会から依頼があり、隣の市の避難所にも出向きました。診療内容としては、義歯を紛失された方が多かったのと、皆さん、極限状態ですから、ストレスから疼痛を訴える方が多かったです。それから医科の先生方も混乱していたので、避難所では被災者の声を聞いてまわり、医科の先生との仲介をすることもありました。
扇田:避難所には顔見知りも多く、「元気でよかった」「生きててよかった」と、声をかけ合いましたね。
岩田:それまでお互いに暗かった顔が明るくなって、会えた喜びを分かち合う感じでした。
扇田:食べ物と寝るための物資は割と早く届いたんです。でも、歯磨きに関する物資はなかなか届かなくて、避難生活が長引くうちに、だんだん皆さんの口腔衛生も悪くなっていく状況でした。
岩田:歯磨きが後回しになってしまうことは、避難所における課題だと思います。やはり、平時から医科の先生や自治体の担当者、住民の皆さんに、口腔の健康が全身に与える影響も含めて、歯科の重要性をアピールしていかなければならないと感じています。
扇田:そうした反省を踏まえて、台風10号の際には、事務所に保管していた歯ブラシや義歯洗浄剤、洗口液などをどんどん皆さんに配りました。特に高齢者は避難所で肺炎にかかると大変ですから、私たちのような地元の歯科医師や歯科衛生士が率先して声をかけなくてはいけないと思っています。皆さん、食べることが最優先なので歯磨きに対する意識は薄いのですが、それでも顔見知りが声をかけることで、歯磨きも大事だと気づくことがあると思います。
診療車内で治療や口腔ケアを行う岩田先生と扇田歯科衛生士
風光明媚で魅力ある町の健康を守るために
-- 最後に、岩泉町における歯科診療車の重要性について、あらためて教えてください
岩田:物理的に歯科医院に通うことができない方々から、「痛みがなくなりました」「入れ歯が治って噛めるようになりました」と言っていただけることが、私にとっていちばんの喜びです。特に高齢化が進む中で、肺炎予防やフレイル予防という観点から歯科医療の意義は高まっていると感じています。一方で、岩泉町は人口減少が顕著で、採算面では厳しい状況にあります。私自身もここで巡回診療を始めて30年以上になりますが、後任についての課題もあります。とはいえ、この事業を必要としている人たちがいる限り、町役場の皆さんからのご理解を得ながら、続けていけるように頑張りたいと思っています。
扇田:保育園児の頃から診ている患者さんも多く、そんな子たちがだんだん大きくなって、結婚して、赤ちゃんを抱いて連れて来てくれると、嬉しくて涙が出てしまいます。患者さんとはいつもワイワイとにぎやかにコミュニケーションを取っています。そうしたお付き合いがたくさんあることは、岩泉町で仕事をする楽しさです。そんな皆さんの口の健康を、この診療所に一人だけいる歯科衛生士として、これからも支えていきたいと思っています。
岩田:岩泉町は風光明媚で人懐っこい方が多い土地なんです。そんな魅力ある町で、皆さんの健康を守るためにも巡回歯科診療の活動を続けていくことは大切だと考えています。
岩泉町の歯科医療を支えるかけがえのないスタッフとともに。左は診療車の運転手兼事務職員の佐藤伸哉さん。
インタビュイー
岩手県下閉伊郡岩泉町
岩泉町国民健康保険岩泉歯科診療所
岩田 信浩 先生(所長)/
扇田 里美さん(歯科衛生士)