TOP>コラム>むし歯の少ない町の歯科医師の日常 シーズン2:108

コラム

むし歯の少ない町の歯科医師の日常 シーズン2:108

むし歯の少ない町の歯科医師の日常 シーズン2:108
むし歯の少ない町の歯科医師の日常 シーズン2:108
6月4日、いつもどおりの時刻に医局前の廊下を歩きながら、窓のブラインドを順序良く開けていく。院長室からは右足が先に出て、それからの歩数までが決まっていることに気づくと、ひとり苦笑いをすることになった。廊下の窓からは山の上を覆う梅雨空が見え、川向こうには水を静かに溜め込んだ水田が広がっていた。田植えが終わると、田んぼの水位は高目に保たれる。雨が少ない香川県では、夏になると市民生活の命綱となる早明浦ダムの水位を気にかけながら暮らすことが常識となっている。ため池密度が全国一高く、その1つから流れ込んだ水であることもわかってはいるが、目の前に広がる水風景はそのことを忘れさせるものだった。

開院した日が思い出された。その日、これから水の大切さを嫌というほど味わう過酷な夏が待っているとは想像すらしなかった。とにかく準備も十分とはいえない状態で開院し、新卒の歯科衛生士1名、高校を卒業したばかりの2名を歯科助手として採用し、事務職1名と私という顔ぶれでスタートした。スタッフにも一から教えるという状況で、診療時間も長く、追い立てられるような日々、そのうえに記録的な干ばつによる給水制限が日常生活のみならず診療の不自由さをもたらし、精神的にも肉体的にも大きな負担となっていった。

そもそも映像記憶が得意な私ではあるが、あの頃の記憶だけが定かではない。秋を迎えた10月、息子の誕生日が26日なのか27日なのか不確かになり、恐る恐る確認した時の自分自身のなんとも複雑な心持ちと「そこの記憶だけ欠落しただけだよ」とかけられた言葉だけが鮮明に残っている。

あれから27年が過ぎ、私は歯科衛生士6名、受付、歯科助手、事務職といった信頼できるスタッフの心強いサポートにいつも感謝しながら、診療室では有意義で無駄のない時間を過ごしている。ここに至るまでの道のりについて、何かの折に活字にしてみればという人もいるが、診療所にかかわった一人ひとりの事情や心情まで確認、理解することなど不可能なので、酒席での話題にでもするのが適切だろう。確かなことは、私は多くのかけがえのない人々に出会い、そして良いスタッフたちに恵まれたことである。

その日、診療をしながら「今日なんの日か知ってる?」と尋ねると、スタッフたちは「開院記念日です」と迷わず返答してみせた。午前中の診療が終わるころに、ニューヨーク・ヤンキースの黄金時代を築いた中心4選手を表すコア4(コアフォー)に準え、私が密かに歯科衛生士コア4と名づけているベテランに勤務年数を確認してみた(自著『季節の中の診療室にて 瀬戸内海に面したむし歯の少ない町の歯科医師の日常』の中に「黄金時代」と題して掲載)。彼女たちは、即座にあるいは少し考えながら25年、24年、19年、13年だと言う。それを聞き、頭の中でその年数に私の27年を加えてみると、108年という数字が現れた。

108は馴染みのある数字である。除夜の鐘の回数、人間の煩悩の数ともいわれているが、「とても多い」ということを表す数字だと聞いたことがある。煩悩のことはよくわからないが、彼女たちと私は「とても多く」の時間を診療室でともに過ごし、「とても多く」の言葉や表情で会話を交わし、「とても多く」の患者さんを迎えながら、今の診療所の姿ができあがってきた。

診療が終わる頃になると108年という単語が頭の中に何度も浮かび、そうなると連想ゲームが始まる。「長生きする人は108歳まで生きられる。それより長い年数を生きるとなると動物よりやはり植物となるか」など、108という数字にとらわれながら2、3日を過ごすことになった。

そして日曜日の夜、生物や地球にとても優しい家人に「市内でいちばん高樹齢の木はどこにあるのだろう」と問いかけてみた。即座に「讃岐財田駅前のタブノキの木だと思うよ」という答え聞くと、夜明けを待ちかねタブノキを目指して車を走らせることになった。思い立ったらすぐ行動に出てしまうのは毎度のことである。

小一時間後、駅への最後の案内板に従い緩やかな坂道を登り始めると樹高13メートル、幹周5.8メートルのタブノキが厳かな姿を現した。駐車場に車を止めると時間を忘れ、近づいたり離れたりしながら四方に伸びる枝や葉、太い幹を眺めた。推定樹齢700年といわれる木肌にそっと手をのせてみる。この木が地面から小さな芽を出した頃、人類はペストの第二パンデミック下にあり、ヨーロッパの人口の3分の1が命を落としたことを思い浮かべたのは、間違いなく新型コロナ感染拡大の所為である。緑の葉々を見上げると地球温暖化対策を急げと囁いているようにも思えた。

梅雨空に顔を出す晴れ間を見つけては考えている。新型コロナウイルスのワクチンは希望の光、感染拡大の収束を実感しながら次の108の除夜の鐘を聞き、世界中が温暖化対策を早急に推進しなければと。

著者浪越建男

浪越歯科医院院長(香川県三豊市)
日本補綴歯科学会専門医

略歴
  • 1987年3月、長崎大学歯学部卒業
  • 1991年3月、長崎大学大学院歯学研究科修了(歯学博士)
  • 1991年4月~1994年5月 長崎大学歯学部助手
  • 1994年6月、浪越歯科医院開設(香川県三豊市)
  • 2001年4月~2002年3月、長崎大学歯学部臨床助教授
  • 2002年4月~2010年3月、長崎大学歯学部臨床教授
  • 2012年4月~認定NPO法人ウォーターフロリデーションファンド理事長。
  • 学校歯科医を務める仁尾小学校(香川県三豊市)が1999年に全日本歯科保健優良校最優秀文部大臣賞を受賞。
  • 2011年4月の歯科健診では6年生51名が永久歯カリエスフリーを達成し、日本歯科医師会長賞を受賞。
  • 著書に『季節の中の診療室にて』『このまま使えるDr.もDHも!歯科医院で患者さんにしっかり説明できる本』(ともにクインテッセンス出版)がある。
  • 浪越歯科医院ホームページ
    https://www.namikoshi.jp/
浪越建男

tags

関連記事