●痩せていく避難所の高齢者たち萩野先生はなぜ歯科医師という道を選ばれたのでしょうか
今から振り返ると高校生の時に経験した阪神淡路大震災がきっかけだったと思います。幸い、自宅の被害は小さかったものの、しばらく自宅待機が続いたため、「私にも何かできることはないか」と、避難所に食べ物を運ぶ手伝いを始めました。ところが、しばらくすると冷めて固くなったおにぎりや揚げ物をうまく食べられない高齢者がたくさんいることに気づいたんです。そして、日に日に痩せていくその方々を見て、もどかしい思いを抱いていました。そんなある時、馴染みの飲食店が営業を再開し、ポトフだけを販売していました。季節は冬で、公共交通機関がすべて止まっていて、寒い中、長い距離を歩いていた私にとって、このときのポトフはまさに生きていることを実感する食事でした。そんなときのあたたかい食べ物は本当にありがたいですよね
実は、避難所の高齢者たちも炊き出しのあたたかい食べ物であれば食べることができるんです。そして、そうした食事の際には皆、笑顔になります。被災地での生活は生きていく上でいかに食が大切であるのかを目の当たりにする体験がいくつもありました。その頃から“食を支える仕事がしたい”と思うようになり、歯学部を目指すようになりました。 ●放置された在宅の患者さんその後、大学院に進学されましたが、そこでは何を学ばれたのでしょう
専攻は顎顔面補綴学でした。近年、がん患者の予後が改善された反面、手術後に起こる障害によってQOLが著しく低下する患者さんが増加しています。例えば、頭頸部がんは日本人のがん全体の5%が罹患し、その多くで手術後に上顎欠損が生じます。口腔、鼻、副鼻腔の交通によって咀嚼や嚥下の障害、鼻咽腔閉鎖不全や発音障害などで苦しむ患者さんが増えているのです。そのような方であっても口から食べられ、発話が問題なく行える顎義歯を製作することが大学院での主な研究でした。 ※(写真) 萩野先生が作製した顎義歯。手術で生じた上顎欠損の形状に合わせて形作っていく。そこからどうして訪問診療に関心を抱くようになったのでしょうか
大学院時代、あることをきっかけに通院できなくなり、1年ぶりに来院された患者さんがいました。口腔内を診るとひどい状態でした。「歯科医療からたった1年離れるだけで、ここまでひどくなるものなのか」と、その時、あらためて感じました。偶然にもその方の自宅は私が外勤していた歯科医院の近くだったため、「ご自宅で診ましょうか」と提案しました。このときの患者さんが私にとって初めての在宅での顎義歯製作でした。上顎が欠損した在宅患者さんの中には顎義歯が合わず、ガーゼを詰めたまま一生を過ごす方もいらっしゃいます。また、上顎欠損ではなくとも食べられない口腔状態のまま放置されている患者さんも見受けられます。こうした方たちを誰かがフォローしなきゃいけないという思いを大学院生の頃からずっと持っていました。そもそも心配なんです。自分が診ていた患者さんが来院できなくなったら、その後、どうなってしまうのか。何のためにこれまで治療してきたのか。そうしたことを考えると、“在宅に足を運び、最期まで診療するのが歯科医師の役目なんじゃないか”と思うようになり、訪問診療に特化した『おはぎ在宅デンタルクリニック』を開業することになりました。 ●経管栄養でも「食べられる口」へ在宅の患者さんの特徴を教えてください
多くの高齢患者は顎堤が退縮しています。そのため、いわゆる“教科書どおり”の義歯ではうまく咀嚼ができず、発話さえ難しい方もいます。あるいは、誤嚥性肺炎を起こしたことで経管栄養となり、義歯を外してしまう方もいます。そうした方たちは口腔の筋肉や舌を動かさなくなるため、自浄作用が低下し、口腔内に痰や痂皮が溜まりやすくなります。結果的に誤嚥性肺炎のリスクが高まるという悪循環をよく目にします。ただ、そのような患者さんであっても義歯を調整したり、新しく適した義歯を製作したりすることで「食べられる口」へと戻ると低栄養が改善され、元気を取り戻します。実際に、どの程度まで「元気を取り戻す」ことができるのでしょう
人それぞれではありますが、寝たきりだった方が外出を楽しめるようになるまで元気になることもあります。そして、きちんと咀嚼できることで唾液の分泌量が増え、自浄作用も高まります。訪問診療では口腔ケアが大きな役割を果たしますが、口腔ケアをしやすい口腔環境を整えるという点でも義歯の調整・製作は重要な意味を持っていると考えています。 ●外来診療との違い訪問診療と外来診療にはどんな違いがありますか
高齢の患者さんの場合、体調が急変することがあるため、治療に何日もかけられません。実際に義歯をつくったものの、セットする前に亡くなってしまったという経験はなんどもありました。ですから、むし歯を治すよりも、まずは義歯を入れて食べられる口にすることの方が大事な場合があります。もう一つ、外来診療との大きな違いは相手のテリトリーに出向くという点です。訪問の時間を相手に合わせることはもちろん、治診療用のユニットがないため、診療姿勢も患者さんの姿勢に合わせます。相手のテリトリーではさまざまな都合を相手に合わせる必要があるのです。その一方でいろいろなことが見えてきます。例えば、普段の食事の状況が分かるので、噛み方や姿勢の的確な指導が行えるようになります。あるいは壁にポスターが貼ってあれば、そこから趣味を知ることができ、会話のきっかけになることもあります。ご家族とのコミュニケーションを含めて、訪問診療では何気ない会話も信頼関係を築くための大事なポイントです。 ※(写真) 施設での義歯調整の様子。訪問診療では様々な創意工夫を重ねながら臨機応変に対応することが求められる。 ※(写真) 患者さんの姿勢に合わせて常に診療姿勢を変えていくため、腰痛にはいつも悩まされているそう。訪問診療で苦労に感じることはありますか
いちばんは認知症の患者さんへの対応だと思います。ともすると介護者であるご家族も認知症の場合があるため、こちらの説明をすぐに理解してもらえない時には、根気よく対話を重ねます。また、治療中に指を噛まれることもあります。認知症の方は突然、口を触ると恐怖心から噛んでしまう方が少なからずいらっしゃるのです。まずは同じ目線の高さで話しかけ、握手をするなど体の遠心から触るようにして、相手の緊張を解きほぐしてから治療を始めるようにしています。 <次回へ続く> 【関連 動画コンテンツリンク】 通院できない患者さんたちの食べる喜びを支えたい ―「最後の歯医者」としての食支援 ― Vol1 通院できない患者さんたちの食べる喜びを支えたい ―「最後の歯医者」としての食支援 ― Vol2
著者萩野 礼子
東京都文京区 おはぎ在宅デンタルクリニック 院長
2004年に東京医科歯科大学歯学部を卒業後、東京医科歯科大学歯学部付属病院、国立がん研究センター中央病院歯科などに勤務。常磐病院歯科では福島県いわき市初となる訪問歯科の立ち上げに参画し、2019年に「おはぎ在宅デンタルクリニック」を開業。日本顎顔面補綴学会認定医。嚥下食を提供する和食店「甚三紅(じんざもみ)」のオーナーという顔も持つ。