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シーズン2:誕生

2021/8/17 デンタル〇〇デザイン

新型コロナウイルス感染"第5波"による新規感染者数が増加するなか、1年の延期を余儀なくされた「東京オリンピック2020」が開催された。感染拡大防止のために、ほとんどの会場が無観客で開催される一方で、開会式が行われた国立競技場周辺やマラソンコースなどの沿道には、多くの人が押しかけ「密」状態がつくりだされていた。心理学者の「人間の心理からすると自然な反応だ」という言葉を複雑な気持ちで聞いたのは、私だけだろうか。

たしかにスポーツ、特にオリンピック競技では、大観客の熱い声援や表情の変化が特別な瞬間に彩りを添える。陸上競技の決勝日の観戦チケットが当選していた私も、感染拡大がなければ間違いなくその観客席にいただろう。しかしテレビ画面の向こうにある静かな競技場からは、選手の息づかいや声、足音など、普段は声援に打ち消されている競技独特の細かな音が聞こえ、それが新鮮にも感じられた。とにかく緊急事態では我慢が必要なのだ。

スポーツだけでなく音楽ライブイベントの中止も、多くのアーティスト、業界関係者そして音楽ファンもやり場のない気持ちを募らせている。自著『季節の中の診療室にて』(クインテッセンス出版刊)が出版された折に、地元のラジオ局の番組に出演する機会をいただいた。番組パーソナリティーの的確なサポートで、私は人生でもとびきり楽しい時間を過ごすことになった。むし歯予防の話に始まり、椿や父母ヶ浜、大ファンである歌手・中島みゆきのことなどを、感じているままに語らせていただいた。

番組が始まる前には、中島みゆきの最後の全国ツアー「結果オーライ」の公演チケットを手に入れていることも報告し、番組内唯一のリクエスト曲には彼女の歌う「誕生」を選んだ。その後、新型コロナウイルス感染拡大のためにツアーは中止になり、落胆の日々を過ごすために曲を聴く回数が増えていった。やがて「どのようにして歌詞となる言葉を選び出していたか」に興味がわくようになってしまった。

もう1つ思わぬ出来事があった。私の本を手に取ったある椿苗屋さんのご主人と椿をネタに電話口で話していると突然、ある弁護士さんの名前が挙げられ、繋がりはあるのかと尋ねてきた。心あたりなどまったくなく戸惑っていると、日本人の多くが知るある事件の弁護団の一人だという。ぜひ本を送った方がいいという言葉に促されて、その日のうちにポストに投函した。

そして翌々日、その弁護士さんから長いメールをいただき、感動しながら何度も読み返すことになった。「私も椿と中島みゆきが大好きなのです」という一文に、椿苗屋さんのご主人の意図するところはここにあったのかと、ついニヤついてしまったのだった。「中島みゆきつながり」、椿の花が咲いていた頃の話である。

椿の花の季節が過ぎるたびに自宅や診療所を取り囲む木々の緑が体積を増していき、早朝には生きものの誕生や幼体を目にすることが多くなった。オリンピックが閉幕した日の早朝にケヤキに2羽のヤマバトの幼鳥がいるのを見つけた。飛行訓練を始めたばかりなのか、枝に止まる姿がどこかぎこちない。そして鳴き始めた。

ヤマバトの鳴き声は「ポーポーポッポー」と聞こえるというのが多数派の意見ではあるが、私は小さな頃「おかーさんどこー」と教えられためか、不思議とそう聞こえてしまう。

その鳴き声を聞いていると、あの「誕生」の曲に続き、春に観た映画『すばらしき世界』(西川美和監督)のワンシーンが思い出された。純粋な魂の持ち主の男が人生の大半を刑務所で過ごし、出所後にあらためて社会からの"置いてきぼり"をくらいながらも必死に生きる様を、名優・役所広司が演じていた。

そのシーンでは、主人公が子どもの頃にいた施設を訪れ「もしあの時迎えに来なかった母親に会えたら何を話すか」と尋ねられ、「お産の時の話を聞きたい、あなたは聞いたことがあるのか、なぜ聞かないのか、本人しか知り得ないことなのに」と博多弁で答えるのだった。

その日は「誕生」という言葉が何度もよみがえってきた。夜更けに、耳が遠くなり携帯の声が聞き取りにくいという85歳の母親にメールを送り、自分の生まれた時の様子を尋ねてみた。すぐに返されてきた変換ミスが含まれている返信メールの文章はだれに見せるわけでもなく、そして消去することはない。

だれにでも「誕生」の時がある。今日は身重の患者さんを前に頭の中を中島みゆきの「誕生」の曲が流れていく。