聴覚に障がいのある方にとって、歯科医院での治療は困難を伴うことや、不安に感じることが多いと思います。そこで、歯科衛生士でもあり手話通訳として活躍されている石塚美沙子さんに、歯科における手話の必要性や、聴覚に障がいのある患者さんへの対応法、手話がもたらすコミュニケーション力アップの可能性などについてお話を伺いました。 手話歯科衛生士・トリートメントコーディネーター 石塚 美沙子さん <石塚 美沙子(いしづか みさこ)さんプロフィール> 2003年3月 群馬県歯科衛生士専門学校(現・群馬県高等歯科衛生士学院)卒業 2003年 一般歯科クリニック入社(聴覚障がいのある患者様担当) 2010年 手話通訳者全国統一試験合格 2014年 地域保健センターにて母子歯科保健指導 2019年 一般歯科クリニック入社(聴覚障がいのある患者様担当) 2022年〜 フリーランス歯科衛生士として独立 「歯科×手話」を全国に広め、どんな方も平等な医療が受けられる社会を目指す。 ・歯科衛生士免許 ・手話通訳者全国統一試験合格 ・一般社団法人日本歯科TC協会 Master取得 ・日本アンチエイジング歯科学会 会員聴覚障がいのある患者さんの口腔内はどんな状態?
-最初に歯科衛生士になろうと思った理由を教えてください 幼少期から、医療分野に興味を持っていて、その頃から将来は医療関係の仕事に就きたいと思っていました。なかでも歯科医院は、私にとっていちばん身近なお医者さんと思えて親近感を持っていました。 ある時、母と歯科医院に行った際に、受付のお姉さんがかっこいいなと思って見ていたら、その受付の方に「どうすればあなたのような職業に就けるんですか?」と母が聞いてくれたんです。するとその方は「もし歯科医院で働きたいのなら、歯科衛生士の資格を取った方が良いのでは」とアドバイスしてくださいました。その時私はまだ中学生でしたが、その頃から「将来歯科衛生士になりたい」という思いを強く持っていました。それが実現した今でも、歯科衛生士を選んで本当に良かったと思っています。 -手話を始めたのは、どういうことがきっかけだったのでしょう 当時、衛生士学校はまだ2年制でしたので、20歳で歯科衛生士になりました。その頃はまだ障がい者とか、聴覚に障がいがあるとか、そのような知識はまったくありません。勤務先の歯科医院も、診療時間が早く終わるとか、休みがしっかり決められているとか、そうした理由で選んだほどです。 ところが、勤務先の院長先生が実は手話ができる方であったため、その歯科医院には聴覚障がいのある患者さんがたくさん来院されていたんです。さらには医院に勤務する歯科技工士さんが、同じく聴覚障がいのある方だったということもあり、耳の不自由な人が身近にたくさんいる環境が普通でした。それから私なりに手話の重要性を感じるようになって、少しずつ勉強するようになっていきました。 -具体的にどういう方法で手話を勉強したのですか? 最初は、独学で勉強してみようと思って、図書館で本を借りて本を読んでみました。でも、本の写真や解説だけでは手の動きや表情が分かりにくく、院内の歯科技工士さんに「手話を勉強してみたい」と思い切って話してみました。するとその方はとても喜んでくださって、当時50代後半くらいの方でしたが、20歳そこそこの私の話を真剣に受け止めてくれました。それが手話を学びはじめたきっかけです。 その歯科技工士さんと話していく中で、毎日来院される聴覚障がいのある患者さんにも、口腔内の健康に関する話を届けたり、日常のちょっとした話もしてみたいと思うようになって、「手話通訳の資格を取得したい」と話してみると、「僕だけとの会話だと限界があるから」ということで、地域の手話サークルに連れていってくださいました。それから本格的に手話を学びだし、手話サークルの参加に加えて手話通訳の養成講座も受講しました。もちろん歯科衛生士としての仕事は続けながら、手話サークルと養成講座で手話通訳の技術と実践を学ぶ方法で、3年間トレーニングを続けた結果、晴れて手話通訳の資格を取ることができました。 手話通訳の技術というのは、立ち居振る舞いも含めて学びますし、聞いてある程度のところで溜めて出す「聞き溜め」という練習をひたすら行います。他にも、英語学習でもよくある「シャドーイング」と言って、同じタイミングで同じ言葉を追いかけていくようなイメージで、手話も目で見たものをずっと追いかけていく練習を行います。たとえ意味が分からなくても、間合いを練習したり、ラジオを聞いて同じことを5秒遅れで追いかけたり、学ぶべきことはたくさんありました。 -手話を学んでいく中で歯科衛生士として気づいたことなどがあればお聞かせください 私は就職してすぐに手話を学び始めましたが、その頃気づいたことは、聴覚障がいのある患者さんの口腔内が不衛生だったり、噛む圧力が強いのか、歯が咬耗している部分があったり、口腔内の状態がかなり悪い方が多いなと漠然と感じていました。その時は「どうしてこんなに不衛生なんだろう」「もっと頑張って口腔ケアしてくれればいいのに」という気持ちが強くありました。でもその方々は予防の話や治療の話を聞く機会がなかっただけで、痛みが取れたら治ったと思ってしまうのはある意味当然かもしれない、と手話を学んでいく中で気づいたのです。 そして、耳の聞こえる人たちが、口腔内に関する健康や口腔ケアについて、どこで教えてもらっているかというと、歯科医院なのだということにも気づきました。でも、歯科医院でその説明を行っていなければ、当然知ることはできません。歯科医院も聴覚障がいのある方が来ると、時間や対応に追われて、細かい指導までできなかったり、マスクを取って口をパクパク動かして伝わっていると思っても実際は伝わっていなかったり…。耳が聞こえない方は言われたことが分かっていなくても、そのことを言えずに分かったように返事をしてしまい、通じていないまま話が進んでいくこともあったと思いますし、今でも全国の歯科医院でそういうことが起こっているのではないかと危惧しています。聴覚障がいのある患者さんが来院されたら まずは筆談に身振りを加えることを意識して
-手話を覚えて、初めて患者さんとコミュニケーションがとれた時はどんな気持ちでしたか?
とても嬉しかったです。最初は挨拶からだったと思うんですけど、聴覚障がいのある患者さんのパッと明るくなった笑顔が忘れられません。自分で言うのも何ですが、患者さんもとても嬉しかったんだと思います。「あなたどうして手話ができるの?」と必ず聞かれて「勉強しているんですよ」という会話から始まって、ほとんどの方がその後も継続して来院してくださるようになりました。当時は手話ができる歯科衛生士がいるということで私に会いに来てくださる方もたくさんいらっしゃったと思います。それからみるみる口腔内がきれいになっていく患者さんが増えたことは、私の中で大きな自信にもつながったと感じています。しっかりと向き合ってやっていけばこんなにも変わるし、今考えれば、口腔内だけではなく、全身の健康について意識されるようになった患者さんも増えたように感じます。 -その歯科医院では、聴覚障がいのある患者さんは1日に何人くらい来院されるのでしょう 1日の患者さんの来院数が全部で3,40人程度で、日にもよりますが多い時は1日8人ぐらい聴覚障がいのある方が来院されることもあります。医院のホームページがなかったにも関わらず、聴覚障がいのある方が多く来院された理由は、噂や口コミ、皆さんのサークルで広がっていたんだと思います。 -聴覚障がいのある方が来院されたら、多くの歯科医院ではおそらく筆談で対応されると思いますが、筆談の難しさに関してアドバイスいただけることはありますか? 分かりやすいところで言うと、動物の鳴き声などに代表される擬音語について、例えば「コケコッコー」は日本人が聞こえたニワトリの声ですよね。でもアメリカだと「クック ドゥードゥル ドゥー」です。でもそれを突然筆談で書かれたら「何のことだろう」となりますよね。私たちはその音に慣れ親しんでいるから、「コケコッコー」がニワトリだと分かるけど、もしそれを「クック ドゥードゥル ドゥー」って書かれると「何だっけ?」となりそうですよね。それと同じで、聞き慣れない単語を文字として理解することは本当に難しいと思います。特に「クック ドゥードゥル ドゥー」の場合、私たちのように普段から聞いていれば「コケコッコー」のことだと分かりますが、聴覚障がいのある方はその音を聞くことができません。歯磨き指導に置き換えると、「ゴシゴシ磨かないでください」とか、「シャカシャカしてください」とか、「ギュッギュしないでください」という言葉は、私たちが聞き慣れている擬音語で、彼らにとってはとても通じづらい言語の一つなのではないかと思うんです。また、敬語も日本語独特の表現で、「いたしません」「なさらないでください」などの謙譲語、尊敬語、丁寧語の区別も難しくて、日々手話に触れていると「日本語ってとても難しくて奥深い言語だな」と感じます。日本語の難しさはそれだけではなくて、例えば「お母さんと妹で買い物に行った」と「お母さんの妹と買い物に行った」とでは、“お母さん”“妹”“買い物”という単語が同じでも、助詞を変えると登場人物が変わってしまいます。私たちが普段当たり前に使っている言葉は、第一言語が日本語以外の方や手話をメインで使われている方にとっては、とても難しくなってしまうので、そのあたりを含めて筆談の工夫はとても大切になってくると思っています。 -具体的に筆談する際のポイントがあれば教えてください 例えば、TBIを筆談で行う際には「歯と歯ぐきの境目にしっかりと歯ブラシを当てて」と伝えることがあると思うんですけど、「歯と歯ぐきの境目」と書いた紙を見た時点で、それがどこのことか分からなくなってしまうと思うんですね。ですので、その場合は顎模型を見せて「ここ!」と指し示せば一目瞭然です。「この場所を、こういうふうに当てるんですよ、OKですか?」と身振りも交えると、より理解度がアップします。また、「レントゲン室に行きましょう」という案内も手話が分からなければ、実際のレントゲン写真を見せながら「今からこれを撮影するから向こうの部屋に一緒に行きましょう」とするだけでも、より分かりやすくなるのではないでしょうか。筆談にも工夫は必要ですが、歯科医院であれば顎模型を使用したり、筆談に身振りを加えることを意識してみていただければと思います。 聴覚障がいのある方にTBIを行う場合は、筆談だけでなく、顎模型を使うなど視覚的に伝える工夫が大事。正しい場合は「OK」、ダメな場合は「×」を身振りで表現するとより伝わりやすい。全国の聴覚障がいのある患者さんのために フリーランスになることを決意
-最初に勤務した歯科医院は何年間勤めたのでしょう 最初の歯科医院を退職したのは27歳の時で、7年間勤務しました。26歳で手話通訳の資格を取得してからは、ダブルワークのような形で1年間ほど働いていました。具体的には、歯科衛生士として働きながら、別で手話通訳者としての活動も行っていました。手話通訳はボランティアではなく、正式な業務としてです。業務内容としては行政や冠婚葬祭、それから企業に出向くこともありました。また、例えば成人式などでよく市長さんの横に立って手話をされている方がいますよね。そうしたお仕事を中心に続けていたのですが、その後夫の仕事の都合で歯科医院を退職することになったのです。 -歯科医院を退職されてからの活動をお聞かせください 国立大学の教育学部で、聴覚障がいのある学生さんたちに手話通訳を行う仕事をしたり、以前と同じように冠婚葬祭などの仕事を行うなど、途中で出産や子育てを挟みながらやっていましたね。出産を終えて1年ほど経ってからは、歯科医院の臨床からは少し離れてしまいましたが、地域の保健センターの歯科衛生士として1歳半健診、3歳児健診で保護者の方々に歯磨き指導などをしていました。さらに、手話通訳と歯科衛生士、大学などの仕事を持ちながら2人目の出産を終えて、臨床、公衆衛生、手話通訳のトリプルワークの生活を送っていましたが、2022年に独立することになりました。 -フリーランスでどんな活動を目指されたのでしょうか 独立する以前に、最初は群馬県内の歯科医院で働いていたのですが、患者さんは近隣の方が多く、この地域の方々の聴覚障がいのある方々の口腔内の健康は私なりに守れたと感じました。次に、同じ群馬県内で以前と少し離れたところに転居して、そこでも歯科医院に入職して、以前勤めていたクリニックと同じように聴覚障がいのある方々の口腔内の健康を守ることができました。ただ、私が守ることができたのはその地域の方々だけで、他の地域の歯科医院ではどうされているのだろう、と疑問に思って歯科衛生士の知り合いに聞いてみると、「みんな筆談しているよ」「時間がかかるので来院してもらっても、ブラッシング指導までできないんだよね」といった話を聞きました。そこで、私の手話通訳のスキルを使って、全国の歯科医院に向けて「少し工夫するだけで聴覚障がいのある方がどんどん過ごしやすくなって、健康になりますよ」といった話を届けたいと強く思ったんです。また、聴覚障がいのある方々にも口腔内の健康についてお話したり、定期的に歯科医院に来院してもらえるモチベーションになるための活動をしてみたい、という思いからフリーランスで仕事をしていくことを決め、現在に至っています。 -聴覚障がいのある方々は、歯科医院ではどんなところで困っておられるのでしょう そもそも予約を取ることが難しいという話はよく聞きます。また予約を取るだけでなく、どうしても予約日を変更して欲しい時がありますよね、その連絡もできません。あとは「ホワイトニングに興味があるんだけど、なかなか切り出せなかった」という方もいらっしゃいましたし、「インプラントなどの自費治療に興味があるけれど、先生が提案してくれない」という話も聞きます。それから、「デンタルリンスは飲むものだと思っていた」という方もいらっしゃって、それはかなり衝撃でしたね。「だって口の中の菌を殺してくれるんだから、それを飲んだら体の中の菌も殺してくれるんじゃないの?」と言われたことがあって…。歯科医院も気づいていないことがたくさんありそうだと感じます。 インタビュイー 石塚 美沙子(手話歯科衛生士・トリートメントコーディネーター) 【関連 動画コンテンツリンク】 「“聴覚に障がいのある患者さんを診るのは大変”というバイアスを取り除きたい」手話歯科衛生士・石塚美沙子さんの取り組み Part1 「“聴覚に障がいのある患者さんを診るのは大変”というバイアスを取り除きたい」手話歯科衛生士・石塚美沙子さんの取り組み Part2
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