従来の歯科医院の領域を超えたスペシャリストと設備を備え、ワンチームとして「おいしく食べる」ための取り組みを実践されている猪原[食べる]総合歯科医療クリニック。猪原健先生と光先生に、取り組みの原点とも言えるカナダ留学でのエピソードや、これまでの取り組みに至った経緯などについて、お話しいただきました。
広島県福山市
医療法人社団 敬崇会 猪原[食べる]総合歯科医療クリニック
訪問診療部部長 猪原 光先生 / 理事長 猪原 健先生
歯科医師として一生をかけて目指すべきゴール
-- 光先生が工学部から歯学部に学士編入された理由をお聞かせください
光先生:工学部では主に歯科材料について研究していました。研究の中で、不思議なことに、ほぼ完璧な材料を作ったとしても、いざ人間の体内に入れると拒否反応を示してしまうことがあります。インプラントの材料にしても、いくら完璧を目指して材料を研究しても、私たちの体は意外と完璧ではない方が順応しやすいことがあって、それが研究していく中で大きな不思議と感じていました。また、医療の世界は閉鎖的とは言いませんが、他の分野から見た時に、簡単には入っていけないと感じて、歯科材料を研究開発する私たちと、それを使う先生がうまく繋がっているのかを疑問に思っていました。そこで、工学と歯科の両方を学んでみれば繋がってくるのではないかと思って、東京医科歯科大学(現・東京科学大学)に学士編入することにしたのです。
猪原 光先生
-- そこで摂食嚥下に関心を持たれたわけですか
光先生:学士編入の制度は当時始まったばかりで、私はその一期生でした。当時は金融関係の方やデザイナー、建築家など、いろんな分野から人材が集まっていて、その発想力を活かして医療でどんな面白いことができるのかを研究することが主なテーマでした。
ちょうどその当時、食べてから飲み込むところ、今で言う摂食嚥下を専門で研究する分野がスタートしたばかりの頃でした。ある時、特別講義で、摂食嚥下について先駆けて研究されている先生のお話を聞く機会がありました。そこで初めて、「食べることをサポートしている人たちがいる」ということを知って、これこそ歯科医師として生涯をかけて目指すべきゴールではないかと感じました。
--健先生はどのような経緯で「食べること」に出会ったのでしょう
健先生:私は頭頸部がんと呼ばれる、頸部から上の部位に発生するがん患者さんをサポートする分野を専門にしていました。そういう患者さんは手術で口腔の一部を摘出する場合が多く、術後に食事を摂ることが困難になるケースがあります。せっかく命が助かっても、その後の人生を楽しめずに社会的に引きこもってしまう状況を見る中で、食べることをサポートできないと幸せになれない人たちの存在を知ったことが大きかったと思います。医局では舌がんの患者さんなどの発音障害に関する研究を行っていました。そこでは、言葉の障害の専門家として言語聴覚士さんが在籍されていて、私はその方から様々な学びを得ることができました。
猪原 健先生
カナダ留学での経験
-- それからお二人ともカナダに留学されたわけですね
健先生:そうです。私は頭頸部がんのチームに入りました。そこでは、医科や歯科、リハビリテーションといった食べる分野の専門家がチームになってサポートしていました。そのチームの中で、言語聴覚士が中心的な役割を果たしていて、「日本に帰ったらこんなチームを作りたい」というきっかけになった経験でした。
光先生:私はカナダでの摂食嚥下リハビリテーションの実際を学ぶために、夫と同じ病院内で、言語聴覚士さんと一緒に病棟を歩いて患者さんの食事の様子を観察していました。カナダは世界100カ国以上の人々が移民する国で、様々なバックグラウンドを持った患者さんがいます。ですから、食事に関して、いくら禁止してもいろんな食べ物を持ち込んでくるんですよ。私たちであれば、毎日パンは飽きてしまい、白いご飯を食べたくなりますよね。国によって食べたいものが違うので、まさにカオス状態です(笑)。そうした中で、検査食で摂食嚥下の状況を調べただけでは、何の解決にならないことがわかってきました。例えば、日本人なら白飯ですし、イタリア人ならパスタを食べたい。それぞれの人が食べたいものを食べることが叶えられないと、食べたことにはならないんです。「これだけ食べられますよ」「こんな形態なら食べられますよ」といっても、この仕事はそれだけでは終わらないということに気付いたんです。「摂食嚥下をサポートするためには、患者さんの生活を丸ごと支える必要がある」という思いで帰国しました。
健先生:私も「多職種がチームになって患者さんを支えないことには、最後まで伴走できない」という気づきを得て帰国しました。カナダでは、同僚や指導教官の多くは言語聴覚士でしたし、福山に戻り父の診療所で勤務するようになって、「何かが足りないな」と思っていたら、言語聴覚士がいないことに気づきました。そこで、訪問診療先で出会った別の言語聴覚士さんに渡辺さんを紹介してもらいました。その後、管理栄養士の樫野さんにも縁あって来ていただき、現在の診療体制のベースが整っていきました。
カナダ留学時代の様子。分野は違えど、「食べること」をサポートするために必要な多くの学びを得ることができた。
パンの焼ける香りは偉大
-- クリニックの特徴は、やはり待合室にあるオープンキッチンだと思います。このキッチンを待合室に設けた理由をお聞かせください
光先生:待合室でいい香りがしていることがとても大事なんですよ。「どうして歯医者なのにキッチンがあるの?」という疑問がわき、いい意味で患者さんの思考が止まるんです。クリニックに入った瞬間にいい香りがして、待っている間に管理栄養士や言語聴覚士、あるいは患者さん同士で会話が生まれます。
あるサラリーマンの患者さんが抜歯のために来院され、緊張された様子で待っておられました。その時、ちょうど樫野さんが焼肉のタレの試作をしている最中でした。歯科医院なのに部屋中にニンニクの匂いが充満していて、その患者さんは、「この食欲をそそる匂いはどこから匂ってくるんだろう」と考えているうちに、いつの間にか抜歯が終わっていたそうです。治療が終わるとすぐにキッチンに駆け込んできて、「匂いのもとはこれだったのか。おかげで緊張がほぐれて助かったよ」とおっしゃったことがありました。キッチンがあって、パンを焼いたり調理している様子を目にすることで、今までの「歯科医院は怖くて痛い場所」という概念が払拭されます。香りの力は本当に偉大で、パンが焼ける香りがしてくると、患者さんに対して「最近おいしく食べられていますか?」という言葉が自然に出てきます。またスタッフにとっては、「私たちは“食べること”をサポートするプロフェッショナルなんだ」という自覚を呼び覚ますきっかけにもなると感じています。
クリニックのシンボルとも言えるオープンキッチンを囲んで。管理栄養士の樫野さんと言語聴覚士の渡辺さん
たくさんいるはずの「食べられない」患者さんと繋がるために
-- 食べることをサポートしていく上で得られた気づきがあればお聞かせください
光先生:自らの体験として、いくらホームページやSNSなどのデジタルデバイスを使ってマーケティングしても、食べられない患者さんには辿り着けないことに気づきました。大学病院に勤務していた時は、患者さんはそれこそ列をなしてやって来たものです。私はカナダ留学から戻ってすぐ、結婚して福山という全く知らない土地に来ました。当時、摂⾷嚥下リハビリテーションを掲げる歯科医院はまだ少なかったので、いろんな雑誌に取り上げてくださいました。これで患者さんには困らないなと思って待っていたのに、誰一人として来ないんです。病院時代にあれほどたくさんいた食べられない患者さんはどこにいったんだ。必ずいるはずなのに、辿り着けないことに謎は深まるばかりでした。
健先生:そこで私は「外に出て課題を探しにいくように」とアドバイスしました。何らかの理由で医療に繋がっていない人がいるはずだから、ともかく街に出て、何が起こっているのかをまず調べてみることが先決だと思ったのです。
光先生:近隣で開催されている医療や介護に関する勉強会に参加して、「歯科医師の猪原光です。摂食嚥下を専門にしています」とアピールしてくるようにと言われて、とにかく言われた通りに数か月やってみたんです。
そうすると「実は悩んでいることがあって」と、勉強会の後に参加者から相談を受けるようになってきたんです。「実は食べられない人がいるんです」とか「口腔ケアの勉強会を開いてもらえませんか」など、いろんな相談がありました。街に出ていくと、実は多くのところで歯科に関する課題があることがわかってきました。こうして対面でヘルパーさんや看護師さんなど、介護の現場に携わる人たちに直接出会い、お互いの課題や問題点を共有することで初めて患者さんの存在がようやく見えてきました。と同時に、この活動を続けないと患者さんと繋がることができないという事実にも気が付いて、腰を据えて取り組むことにしました。その後、先述したキッチンスペースを使って、5年間で100から150のイベントを開催しました。看護師さんやヘルパーさんが求める情報がわからない中で、ひたすらイベントを開催して、とにかく食べることにまつわることで各職種の方々にお願いしたいことを訴え続けました。そうするうちに、イベントに参加してくださった方々が、患者さんを見つけて繋いでくださるようになりました。現在、途切れずに私たちのクリニックに訪問診療の依頼をいただけるのは、こうした地道な活動があったからだと思います。
キッチンを使った調理イベントでの一コマ
まずは患者さんの身長・体重や血圧を測るところから
-- きちんと食べられていない兆候やサインのようなものがあれば教えてください
健先生:基本的には痩せている人です。歯科に特化した内容でも何でもなく、そうしたシンプルなことなんです。当院の問診票には身長と体重を書く欄を設けていますが、実は患者さんの中には、ご自身の体重をきちんと把握できてない人は意外に多いんです。重要なポイントとしては、院内に身長計と体重計が置いてあることです。まずはそれらを歯科医院に置いて「ご自分の体重を把握しましょう」と訴えていくことが大切です。定期的にご自身の体重を計測する中で、この半年間で体重が急に2, 3kgも落ちたということになれば、どこかに異常がある可能性があるわけです。いちばんに疑うべきは「がん」ですが、その心配がないのであれば、そもそもの栄養が足りていない可能性があります。または、運動をしすぎて、その運動量に見合った食事ができてない方もいらっしゃいます。その場合、結論として「食事をしっかり食べて十分な栄養を摂りましょう」ということになります。ここで歯科の出番になるわけです。その理由として、歯が悪くてしっかり噛めないと、軟らかい食事ばかりになります。柔らかい食事というのは、炭水化物が多くタンパク質が足りていない傾向があります。また、そのご飯も軟らかく炊いたり、おかゆなどになると、かさは多く見えますが実際の栄養摂取量は不足してしまいがちです。そのためにはしっかり噛める、噛んだとき痛くない口腔状態を維持することがとても大切です。近年、口腔機能低下症のリハビリテーションや指導がよく知られていますが、口腔機能低下症の改善に最も有効な手段は、きちんと歯科医院を受診することなんです。当院で、定期的にメインテナンスに来院される患者さんに、口腔機能低下症の疑いがある人の率を調べてみると、1割を下回っていました(一般的には、高齢者における口腔機能低下症の罹患率は、3~4割とされている)。その結果から、定期的に歯科医院を受診し、良好な口腔状態を維持されている方は口腔機能低下症になりにくいと考えられます。重要なことは歯科医院と途切れないことです。そのためには、「しっかり食べられていますか」などの積極的な声かけを行って、常に健康状態を気遣う姿勢が歯科医院にも求められていると思います。
光先生:患者さんが普段食事をどんなふうに食べているかを見てみることも大切です。たいてい栄養が摂れていない人は、早食いや良くない姿勢で食べている人が多い印象です。とくに早食いは男性に多く、ほとんど噛めていない人もよく見かけます。若い時は筋肉が発達しているので、少々無理がある食べ方でも喉の器官が何とか解決してくれますが、高齢になってくると、若い時のような対応ができなくなってきます。例えれば、ぬかるんだ道を早足で歩いているような状態です。靴も良くないので、必ずどこかで引っかかってしまいます。その時に、若い人は転ばずに体勢を立て直せても、多くの高齢者は転んでしまいます。ですから、きちんとした靴を履いて、できればぬかるみのない道を歩くことが大切です。それを若い時の感覚で無理するので、誤嚥し、窒息してしまうのです。その問題を解決するため、特に高齢者の場合には、とにかく食べるところを見て、食べ方に問題がないかを調べることが大切だと考えています。
近年、「食べる」ということに関心を持つ歯科の先生方が増えています。高齢化が加速する中で、多くのお年寄りが歯科医院に来院されるようになってきました。当院では、「食べる」ということに長年注力してきた実績があります。その実例をモデルケースとして、今後は他の先生方に共有していく取り組みにも積極的に参画していければと考えています。
インタビュイー
広島県福山市 医療法人社団 敬崇会 猪原[食べる]総合歯科医療クリニック
猪原 健(理事長)/
猪原 光(訪問診療部部長)
<猪原 健(いのはら けん)先生プロフィール>
2005年 東京医科歯科大学歯学部 卒業
2009年 東京医科歯科大学大学院 顎顔面補綴学分野 修了(歯学博士号取得)
2010年 日本大学歯学部 摂食機能療法学講座 非常勤医員
2010年10月~2011年9月 カナダ・アルバータ大学 リハビリテーション医学部 言語聴覚療法学科 Visiting Professor として留学
2011年 当院 副院長へ赴任
2015年 社会医療法人祥和会 脳神経センター大田記念病院に歯科部門を立ち上げ、非常勤医として勤務(現職)
2020年 医療法人社団 敬崇会 理事長
2021年 グロービス経営大学院 経営研究科 修了 MBA経営学修士
東京科学大学大学院 生体補綴歯科学分野 非常勤講師
東京科学大学大学院 歯学部 口腔保健学科 非常勤講師
岡山大学大学院 歯周病態学分野 非常勤講師
厚生労働省認定 歯科医師臨床研修指導歯科医
<所属学会など>
日本老年歯科医学会 日本顎顔面補綴学会 日本在宅医療連合学会 日本補綴歯科学会
日本摂食嚥下リハビリテーション学会、日本口腔インプラント学会など
<猪原 光(いのはら ひかる)先生プロフィール>
2000年 東京都立大学 工学部 応用化学科 卒業
2001年 東京医科歯科大学歯学部 学士編入学
2005年 東京医科歯科大学歯学部 卒業
2009年 東京医科歯科大学大学院 高齢者歯科学分野 修了 博士(歯学)取得
2006~2010年 国立感染症研究所 細菌第1部研究員
2010年 東京都立多摩総合医療センター精神科
2010年~2011年 カナダ・エドモントン ミザリコーディア病院 摂食嚥下リハビリテーション部門
2011年 敬崇会 猪原歯科・リハビリテーション科 訪問診療部部長
2025年 グロービス経営大学院 経営研究科 修了 MBA経営学修士
<現職>
日本老年歯科医学会 在宅歯科医療検討委員会 委員
東京科学大学歯学部 口腔保健学科 非常勤講師
九州歯科大学歯学部 口腔保健学科 非常勤講師
<所属学会など>
日本老年歯科医学会 代議員・認定医
日本摂食嚥下リハビリテーション学会
厚生労働省認定 歯科医師臨床研修指導歯科医