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随想「顎変型症の人たち」-顎の矯正の手術 第6回(最終回):矯正も手術も使いよう

随想「顎変型症の人たち」-顎の矯正の手術 第6回(最終回):矯正も手術も使いよう
随想「顎変型症の人たち」-顎の矯正の手術 第6回(最終回):矯正も手術も使いよう
何度も手術されてから、治っていない、とやってきた人たちもいた。
1人目。一度目の手術をして、噛み合わせは良くならず。更にもう一度手術をしても、やっぱり噛み合わせは良くならず。「もうこんなら東京行ったほうが早いわ!」と、3時間以上かけて東京まで通うことにしたという方。よく話を聞き、現状の分析から考えるに、多分に戦略ミス。僕たちでも同じ手術をやったら、きっとこの方の噛み合わせは良くならない可能性は高い。戦略変更して、少し手術は大変になったけど、良い噛み合わせとなり、満足していただけた。
2人目。本人の話を聞いてもよくわからないものの、20年弱前に顎変形症の手術を受け、しばらく後に金属をとる手術を受けた後に、更にまた顎変形症の手術を受けた、という人。残念ながら、顎は出たままだし、歯並びは悪いうえに歪んでいるし、骨を動かしたところは骨がついていないし、なんならそのまわりの歯まで影響されてきてしまっており、戦略も技術もミス。たまたま20年前に来院既往があり、X線写真のデータが1枚だけ残っていた。歯並びは悪いが、顎の骨はキレイ。この時に会いたかった。結果的に、カモフラージュ的にまた違う部分の手術をして何とか噛み合わせを整えつつ、骨がついていないところに骨の移植をしたが、残念ながら歯は救えずに何本か抜くことになってしまった。
3人目。手術の戦略は間違っていなかったのかもしれないけど、何かしらで手術後に噛み合わせが確保できず、口をワイヤーで縛られたり引っ張られたりして本当に苦しかった、という方。しかし残念ながら、いまだ明らかに顎が出ている。調べると、手術後に無理矢理引っ張ったからか、歯の周りの骨はえらい傷んでいて、かつ、金属プレートも折れていた。その金属プレートは弱すぎてこの手術には耐えられないタイプで、選択ミス。結果、骨の移植もしながら手術で対応し、かなりいい感じに修正できた。
明らかに、技術的な問題のある手術が原因の、術後感染の人もいた。その当時、新しく発売された骨接合材を使っていたので経験もなかったのだろうが、知恵もなかったようだ。

例えば鎖骨頭蓋異形成症の人は、下顎の形がかなり変わっているし、埋伏歯を牽引しても出て来ないことが多いので、通常通りの戦略ではなく、矯正治療も、外科手術も、その特性にあわせた戦略をとる必要がある。
顎関節の骨が吸収されて小さい人も、顎関節の骨に負担をかけないような手術戦略をとるなど、検討をする必要がある。
適切な戦略をたて、適切な材料を選択し、適切な技術を適応させる。ただ、それだけのシンプルなことなのだけど。。。

往々にして外科は外科に頼りたがるが、個人的にはミニマムな外科で最大の効果を得るのがいいと思っている。
しかし、外科をミニマムにすることにより患者さんの負担が結果的に増すのであれば、外科が少し大変になろうとも全身麻酔下でできる限りのことはしておいて、患者さんの負担を減らしたほうがいいと思う。
逆に、歯科矯正だけで行けそうな時は、身体にとってはその方がいい。しかしここでのジレンマは、歯科矯正だけだと自費で、手術が伴うと保険適応になるというところで、身体を優先するのか、財布を優先するのかというバイアスは、かなり大きいところもある。

エホバの証人の家に生まれた人がいた。手術前提での治療を開始する前に麻酔科に確認し、手術の時の全身麻酔を受けてくれるとなったので手術前の矯正治療を始めたのに、いざ手術の段となったら断ってきた事があった。あまりに無責任な、尊厳を踏みにじる愚行だった。結果的になんとか調整して手術をして事なきを得たが、考えさせられる事象だった。
責任が問われる時代になってきて、エホバの証人の人たちは、なかなか自分の信念を貫いて手術を受けられる場がなくなってしまい、気の毒に思う。単純に、輸血を受け入れないのはその人たちの信仰の自由からの選択なのであって、それは尊重されるべきであるにも関わらず、無責任に「自己責任」とマジョリティの論理を押し付けていいわけはない。
なかには、「その考えってどうなの?」と思うような人までいるけど、全ての人はその人なりに健康で幸せに生きるための医療を受ける権利は保証されるべきである。ならば、どんな「その考えってどうなの?」であろうとも区別するべきでは無いのではないだろうか。

誰もが、その人の考えを尊重された治療を選択できればいいのに、と思う。その信念自体が誰かを傷つけているような場合は別だが、まあ滅多にそんなことはない。
悪性腫瘍の治療においては、手術を受けるのか、放射線治療や化学療法を受けるのか、本人に提示されて、本人の選択で治療方法が決まる。結果的に標準治療ではない治療を選んだ場合の予後は違うものになったりするが、それは当初より提示されたうえで本人が選択した結果であり、医療側が問われるものではない。終末期医療においての延命治療の方針においても、本人の意向が尊重される。

しかし、全ての医療において、信仰を含む個人の信念が、全て尊重されるわけではない。
医療界は、エビデンスとかガイドラインとか、医療界の常識を押し付けすぎているような気がする時もあるのは、ある意味、新型コロナウイルス感染症への対応においても社会から問われたことでもある。
社会における医療の位置づけ、そして保険の適応や、責任の所在、更には、医療従事者側の守られる権利、それらのバランスは難しいなあ、と、いつも思う(了)。

著者中久木康一

東京医科歯科大学大学院医歯学総合研究科 救急災害医学分野非常勤講師

略歴
  • 1998年、東京医科歯科大学卒業。
  • 2002年、同大学院歯学研究科修了。
  • 以降、病院口腔外科や大学形成外科で研修。
  • 2009年、東京医科歯科大学大学院医歯学総合研究科 顎顔面外科学分野助教
  • 2021年から現職。

学生時代に休学して渡米、大学院時代にはスリランカへ短期留学。
災害歯科保健の第一人者として全国各地での災害歯科研修会の講師を務める他、野宿生活者、
在日外国人や障がい者など「医療におけるマイノリティ」への支援をボランティアで行っている。
著書に『繋ぐ~災害歯科保健医療対応への執念(分担執筆)』(クインテッセンス出版刊)がある。

中久木康一

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