アメリカの東海岸、マサチューセッツ州の大都市ボストン。 その街の中心部にある「オソリオ・デンタル・グループ」で、1999年から勤務するのが日根野谷宏先生です。 日根野谷先生がアメリカで働くことになったきっかけや、日米の歯科治療の違いについて、お話を伺いました。 ―― ボストンは今から約390年前、1630年にイングランドを船で旅立った清教徒たちが上陸した「アメリカで最も古い街」として知られています。 現在は数々の大企業のビルが立ち並び、東海岸の金融の中心地として知られるこの都市で、日根野谷宏先生は20年近く歯科医のキャリアを積んできました。 日本の大学を卒業された先生が、アメリカで働こうと思われたきっかけは何だったのでしょうか? ※写真左 ニューベリー通り ジョンハンコックタワー ※写真右 ダウンタウン ボストン 日根野谷 最初のきっかけは、「私の実家が歯医者ではなかったこと」でした。 代々歯科医の家系でない人が、一からクリニックを開業しようとすると、不動産の取得や設備を揃えるのに、かなりの資金が必要となります。 それで大学卒業後、「将来どうしよう」と考えていたのですが、その時に勤めていたクリニックでお世話になった、ある先生との出会いが、大きな転機となりました。 先生はフロリダの大学に留学経験がある方で、咬合学の世界的権威であるピーター・E・ドーソン先生の同級生でもありました。 ドーソン先生は「歯は全身と関連する器官の一部であり、口内環境全体を治療することが重要」という画期的な理論を提唱された方として知られており、私がお世話になった先生は、日本におけるその理論の第一人者として、自費診療で実践をされていました。 先生からアメリカの大学のことや、自費診療の実際の話を聞くうちに、「自分もアメリカに留学して、向こうの歯科医師の資格をとれば、日本に戻ってからもやっていけるのではないか」と考えたんです。 ―― なるほど、とはいえ、実際にアメリカの大学に入学し、資格をとるまでには、たいへんなご苦労があったのではないでしょうか? 日野根谷 今になって振り返ると「ずいぶん無茶をしたな」と感じますね(笑)。 1993年にニューヨークに渡りましたが、当時はインターネットもないので、大学案内を取り寄せるのにも海外郵便で、数週間がかりでした。 アメリカの大学に外国人が入学するには、英語力の証明と、推薦状、自国の大学の成績表が必要になりますが、それらの手続きもすべて一人で行いました。 渡米して住んだアパートは最初ガスも電気も通じてなくて、1週間ほどロウソクの明かりで暮らした記憶があります。 大学の授業が始まってからは、勉強が本当に大変でした。 アメリカで歯科医になるにはまず、パート1、パート2と呼ばれる二種類の国家資格に合格する必要があります。 私はニューヨーク大学の外国人歯科医を対象とした「Advanced Standing Program」というカリキュラムを受講しながら、その試験に合格し、DDSの学位を取得しました。 授業はもちろん全て英語で、辞書は片時も手放せませんでしたが、日本での歯科医勤務経験があったので、臨床実技の授業はスムーズにパスできました。 ―― 1995年に卒業後は、ニュージャージー州の歯科クリニックで約4年間勤務されてから、99年にボストンの「オソリオ・デンタル・グループ」に移られていますね。 2つの医院にはどんな違いがありますか? 日野根谷 ニュージャージー州のクリニックに就職したのは、ニューヨークの家賃と生活費が、高過ぎたことがいちばんの理由でした。 日本では歯医者の数が増え過ぎて競争が激しくなっていることが話題だそうですが、アメリカでは人口あたりの歯科クリニックの数が日本よりずっと少なく、いちばん近い歯科まで車で2時間かかるような地域も珍しくありません。 クリニックの場所によって、患者さんの層も大きく違います。 ニュージャージ州のクリニックは一般的な医院で、そこでは生活保護を受けている方などの診療も行いました。 一方、現在のオソリオ・デンタル・グループのクリニックがあるのは、金融街ボストンの中でも一等地とされる場所で、患者さんのほとんどは富裕層のビジネスパーソンです。 スタッフは歯科医が6人、衛生士が5人になります。 ※写真左 バークリー音楽大学前トローリーバス ※写真右 チャールズ川 ―― 日本の歯科医療と、アメリカのそれとを比較して、もっとも大きな違いは何だと思われますか? 日野根谷 やはり最大の違いは、日本が保険診療中心なのに対して、アメリカの歯科医は基本的に自費診療であることだと思います。 もちろん日本にも保険診療で素晴らしい治療をされている先生が沢山いらっしゃいますが、一人の患者さんにかけられる「時間」は、自費診療のほうが圧倒的に長くなります。 アメリカの歯科診療は「自費」と言っても、ほとんどは患者さんが契約する民間保険会社が支払います。 その金額は、日本で同じ治療を行ったときの、10倍から20倍、多いときには50倍ぐらいになります。 それだけの収入が一人の患者さんから得られるため、アメリカの歯科医師が一日に診療する患者さんの数は、日本よりずっと少ないのが普通です。 そのため、一人に1~2時間かけて診ることができます。 ―― 「痛くなってから歯医者に駆け込む」のが日本で、「虫歯にならないために(予防で)歯医者に行く」のがアメリカだとも聞きます。 日野根谷 うちのクリニックに訪れる患者さんもほとんどは、3カ月から4カ月に1度の定期検診ですね。 5人いる歯科衛生士が、それぞれ1日に平均8人の患者さんのデンタルケアを行います。 まず彼女たちが診察を行い、「専門的な治療が必要」と判断した患者さんを、私たち歯科医が診るという流れになります。 日本とは違い、アメリカの衛生士は予防治療のプロフェッショナルの地位にあり、女性にとっての花形職業の一つです。 給料も高く、パートタイムの場合、ボストン近郊では時給3000円~4000円が普通となっています。 患者さんは、自分が気に入った歯科衛生士を指名して予約しますので、クリニックの経営にとっても、優秀な衛生士を確保することが非常に大切なんです。 ―― 衛生士さん一人ひとりに、患者さんの「ファン」がつくわけですね。 日野根谷 はい、そのとおりです。 腕が良くてコミュニケーション力がある、患者さんに人気の衛生士は、6カ月先まで予約が埋まっています。 アメリカの歯科業界では「チェアサイドマナー」と呼ばれますが、治療中の患者さんとの良好なコミュニケーションも、歯科医や衛生士にとって非常に重要な「技術」の一つと考えられています。 私も患者さんと話す中で、レッドソックスのファンであることがわかれば、話題作りのためにカルテに書き込んでおきますし、投資銀行の方であれば、最近購入した株の相談などをします。 クリニック全体でも、患者さんにお子さんが生まれたらお花を贈ったり、良好な信頼関係を継続することを、経営面でとても重視しています。 ―― これから、アメリカで働いてみたいと考えている歯科医や歯科衛生士の方に向けて、アドバイスをいただけますでしょうか。 日野根谷 本気の覚悟と英語のコミュニケーション力、そして技術がある方であれば、国籍は関係なく、アメリカの歯科業界には大きなチャンスがあることは間違いないと思います。 先程申し上げた通り、自費診療が中心のアメリカでは、歯科医・歯科衛生士ともに開業医でなくとも、高い収入を得ることが可能です。 実際に私も、当クリニックの経営サイドにいたこともありますが、その時より一勤務医となった今のほうが、収入は増えています。 クリニックの数が少ない地域では、歯科医も衛生士も引っ張りだこで、私の知っているテネシーの田舎で働く歯科医は、月収数百万円を稼いでいます。 一方で日本からせっかくやってきたのに、数年で挫折して帰ってしまう人もいます。 「待ちの姿勢」ではなく、働きたいクリニックがあれば、募集していなくとも自分から経歴書を送って面接を求めるぐらいの積極性が、アメリカでは必要になります。 ―― 最後に、日根野谷先生のこれからの目標について教えていただけますでしょうか。 日野根谷 一つは自分の年齢も、50代となったこともあり、後続の世代を育てたいという思いがあります。 今も新しく、若いスタッフが入ってきているので、彼らを一人前にすることが自分の使命です。 もう一つは、歯科の技術革新の波に遅れずに、どんどん新しいことを取り入れていくことです。 ITの進歩で、デジタル印象の精度もどんどん上がっていますし、抜歯法などでも、画期的な技術が考案され、導入が始まっています。 そうした新たなテクノロジーに対応していくことが、歯科医にとっても非常に重要な時代になっていると思います。 ―― 今日は、知られざるアメリカの歯科業界の実際を伺い、大変勉強になりました。 ご帰国中のお忙しい中、ありがとうございました!
日根野谷 宏先生 (ひねのや・ひろし) 1989年大阪歯科大学を卒業後、大阪・京都のクリニックに勤務。 1993年アメリカに渡り、9月からニューヨーク大学歯学部の外国人歯科医のためのプログラム「Advanced Standing Program」に参加。 同学部の「DDS(Doctor of Dental Surgery)」学位を取得する。 その後、ニュージャージー州ベルビルで一般歯科診療を5年間行った後、1999年にボストンの「オソリオ・デンタル・グループ」の一員となる。