かつて春の診療室では、中学校に進学をする子どもたちに「部活は何をするの?」と尋ねることが恒例だった。しかし30年経った今、その言葉を口にする機会はめっきり少なくなっている。 子どもの数の減少が加速している。統計によると、1990年の日本では子どもの人口は約2,250万人だった。それから15年後0~14歳がすべて入れ替わった時点では、500万人近く減少し約1,760万人になっている。これは22%の減少である。また次の15年間で250万人、すなわち15%近く減少し、30年間で子どもの数が約33%減少したことになる。そしてさらに目を引くのは地域格差だ。 それでも時々子どもたちから「野球部に入る」という言葉が返ってくると「目指せ、大谷翔平」と思いながら、自分が野球部だった頃のことを思い出す。時効ということで明かすと、今ではけっして許されない先輩たちからの体罰などがあった。しかしいちばん苦しかったことは何かと尋ねられると、「水を飲めなかったこと」だと即答できる。 水を飲まなかったらからといって野球が上手くなるわけではないだろう、外野で球拾いを始めた頃から頭の中でそんな言葉を浮かべていた。炎天下にいて水を飲まないでいることが体に大きな負担となっていることは実感していたし、なぜそのことを声にして指摘しないのだろうとも考えていた。ところが当時はそれが「常識」だった。適度な水分補給が許されていたなら、野球はもっと楽しく、もしかしたらもう少し上手くなったかもしれないと思うのは私だけではないだろう。 後に知ったことだが、私が高校生だった頃の1976年、和歌山県立箕島高校ではその「常識」を覆し、地元の医者の勧めでレモン汁、ハチミツでカクテルを作り、選手に飲ませていたらしい。これは現在のスポーツドリンクの先駆けともいえるもので、箕島高校はこのカクテル、水、おにぎりなどを持参した1979年の甲子園大会では春夏連覇している。 また「やまびこ打線」で、1981年夏と1982年春に全国制覇を果たした徳島県立池田高校では、真夏でも練習中の水分補給はご法度だった時代に、地元企業の大塚製薬が販売し始めた「ポカリスエット」を補給し、トレーニングの合間の補食も摂取していたという。レスリング選手だった野球部長の進言により蔦文也監督がウエイトトレーニングを取り入れ、筋肉の回復を考え週一回は練習を休みにしていたという。 この話を聞くと、喉の渇きが野球の上達につながるという誤った「常識」の中で過ごした時間が、どこか滑稽にすら思えてしまう。「常識」というものは世間一般に信じられているほどの根拠をもたないという実例のひとつだろう。 私たちの作り上げた野球界での「常識」を破壊するうれしい出来事といえば、大谷翔平選手の活躍である。非常識といわれていた投手と打者の二刀流を、日本プロ野球のみならずMLBでも成功させた。さらには松井秀喜選手とMLBの長距離打者とのパワーの違いを目の当たりにして、だれもが日本人ではMLBでホームラン王を獲得することなど不可能だと確信していた「常識」さえも打ち壊した。 今年、地元の小学校に大谷翔平選手からグローブ3個が贈られた。教室の机の上に並べて写真を撮っていると、アインシュタインの名言が浮かんできた。「天才とは努力する凡才のことである」、「人の価値は、その人が得たものではなく、与えたもので決まる」、そして「常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションだ」という言葉だ。 野球界に留まらず世界の子どもたちの中から、われわれの「常識」を破壊し、地球温暖化を食い止め、平和をもたらす人たちが必ず現れると信じたい。
著者浪越建男
浪越歯科医院院長(香川県三豊市)
日本補綴歯科学会専門医
略歴
- 1987年3月、長崎大学歯学部卒業
- 1991年3月、長崎大学大学院歯学研究科修了(歯学博士)
- 1991年4月~1994年5月 長崎大学歯学部助手
- 1994年6月、浪越歯科医院開設(香川県三豊市)
- 2001年4月~2002年3月、長崎大学歯学部臨床助教授
- 2002年4月~2010年3月、長崎大学歯学部臨床教授
- 2012年4月~認定NPO法人ウォーターフロリデーションファンド理事長。
- 学校歯科医を務める仁尾小学校(香川県三豊市)が1999年に全日本歯科保健優良校最優秀文部大臣賞を受賞。
- 2011年4月の歯科健診では6年生51名が永久歯カリエスフリーを達成し、日本歯科医師会長賞を受賞。
- 著書に『季節の中の診療室にて』『このまま使えるDr.もDHも!歯科医院で患者さんにしっかり説明できる本』(ともにクインテッセンス出版)がある。
- 浪越歯科医院ホームページ
https://www.namikoshi.jp/