Dental Life Design

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むし歯の少ない町の歯科医師の日常
シーズン2:上流へ向かえ
―Going Upstream―

2021/1/11 デンタル〇〇デザイン

新型コロナウイルス感染拡大により、二度目の緊急事態宣言が首都圏を中心に出されようとしている。日々の感染者数を気にかけながら見るワイドショーや報道番組にコメンテーターとして登場する専門家たちの顔ぶれは固定されていて、名前はもちろん肩書きまで諳んじられるようになった。

仕事始め週の昼休み、テレビのスイッチを入れるとそのうちの一人の医師が画面に映し出されていた。彼は「上流から流されてきたコロナ患者を引き上げ救出し治療する。それを続けているのが現状です」「今のままではダメです。上流に上り、原因を突き止める。人々が川に落ちないような手立てを考え、実行しないといけないのです。上流に向かうことが必要です」と熱く語っていた。

「上流へ向かえ―Going Upstream―」、この言葉を初めて聞いたのは大学時代の予防歯科学の講義だった。講義室でのその場面は印象深く刻まれ、これが西洋の保健領域共通の不可欠な理論であることを理解した。歯科医師となり30年以上経った今でも講演や講話の時だけでなく、患者さんやスタッフたちの前でも毎日口にし続けている。

その日、教官は講義が始まるとすぐに同級生の一人に質問した。公衆衛生学の権威であるMaKinlay先生が説く「上流に向かえ」の物語を教えるためだった。「川の側を歩いていると上流から赤ちゃんが流れてきました。あなたはどうしますか」との問いに、指名された学生は即座に「飛び込み助け上げます」と答えた。教官はさらに続けた。「そうだね。助け上げて振り向くと、また上流から別の赤ちゃんが流れてきて、さらによく見ると上流からたくさんの赤ちゃんが流れてきています。さてどうしますか」、そう問われ「大声をだして人を呼びます」と答えた彼の声を聞き、私は頷いていた。

教官は続けた。「人を集めて次々に救出することも大切です。しかし、上流に行って何が原因で赤ちゃんが川に落ちているのか、だれがそんなことをしているのか確認にいく必要があります」「赤ちゃんが流れてくるの待って、それから助けるのはもっとも倫理的な解決方法ではなく、最善のことではないのです」。その言葉を聞き、私はいつもより大きく頷いたのだった。赤ちゃんを歯に置き換えると、歯科医院に通院してう蝕を治療するだけでは根本的な解決にはつながらないことはすぐに理解できた。上流での地域社会のすべての人々のう蝕予防のための環境基盤整備が不可欠で、そのために他国では、水道水フロリデーション(ウォーターフロリデーション)が実施され、日本でも子どもたちに限れば次善の策として集団的フッ化物洗口があることを教えられた。

すべての人々の歯と口の健康づくりにはう蝕と歯周病への上流での対応が必要で、その効果的な予防法はすでに存在する。先日、私が臨床医として尊敬し、目標とする先達からいただいたメールの中の「日本人の修復物の多さと二次う蝕のすさまじさにげんなりしています。歯は歯周病で抜けるのではなく、う蝕で抜けると確信しております。何とかこの現状から脱却しなければなりませんね」という言葉には、歯科医師として何よりも重さを感じる。

その週末、首都圏の一都三県で「緊急事態宣言」が出された。愛知県や大阪府知事たちは緊急事態宣言の発令を政府に要請しようとしている。テレビのスイッチを入れると、感染対策について「上流に向かえ」と訴えていた医師の表情には、曇りと不満が浮かんでいるように思えた。感染拡大は経済活動の停滞を通じて雇用や就業に多大な影響を与え、生活苦に陥る人々の声を取り上げる番組も多くなっている。う蝕予防の最善の公衆衛生手段である水道水フロリデーションが実施されていない日本の状況では、あの時、教官が川を流れてきた赤ちゃんに例えたう蝕は増えると考えて間違いない。

歯科保健医療の専門家の間で「上流に向かえ」、そして「水道水フロリデーションの実施を」という声が上がらないのが不思議でならない。水道水フロリデーションは、う蝕予防のワクチンに相当するような特徴をもっている。生活に欠かせない水環境を改善することで、地域社会すべての人々が平等に生涯にわたって恩恵を得られる最善の公衆衛生施策である。そして、新型コロナウイルスのような感染症の蔓延によっても妨げられない方策であることに気づいてはいるだろうか。