Dental Life Design

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むし歯の少ない町の歯科医師の日常
シーズン2:「カタカタ」

2021/2/11 デンタル〇〇デザイン

2月になると、今でも受験シーズン独特の雰囲気や心持ちがよみがえる。劇的なバレンタインデーの思い出の1つでもあれば、上書き後に消去されたのかもしれないが、還暦を過ぎると苦労した思い出は得難い経験だったと納得できるようになった。

そして私にとっては2月の音がある。穏やかな日差しが降り注ぐ午後、その音を求めて診療所の東側の山の中腹にある椿畑に出かけた。椿の木々のあちこちからメジロの鳴き声が聞こえ、枝から枝へ、花から花へと飛び交っているのが見える。木々の中へゆっくりと歩を進め、適切な位置に座り込み息をひそめる。やがて目の前を横切るように飛び始めると、羽音が聞こえ出す。しばらく目を閉じ、贅沢な2月の音を堪能し、気に入った枝ぶりの椿を切り、ハサミと一緒に空の容器に入れる。山を降り始めると、小さなカタカタという快適な音が付いてくる。

その翌週、患者さんの義歯の調整をしていると、診療所の周りにある椿花の蜜を求めてメジロが飛び交う姿に目が止まり、頭の中では2月の音が鮮明によみがえっていた。調整が終わるのを見計い、次の予約患者さんをチェアーに案内するよう指示すると、やがて隣のチェアーに座った患者さんと歯科衛生士の会話が聞こえてきた。診療室は半個室の状況だが、大きな声で会話をするとその内容が聞こえてくる。「見て、ここにくるまで気がつかなかった。靴下、左右の色が違う。ハハハ」という言葉と二人の笑い声を聞きながら、私は「ああ、靴下カタカタね。カタカタというのは日本全国どこでも通じるのかな、あとでネット検索してみよう」とくだらぬことを考えていた。

その患者さんと会話を交わし、気づかないふりをしながら足元を見ると、なるほど左右でまったく色が違う。診療をしながら30年以上前の大学院生時代の出来事を思い出していた。

大学院生だった私はまだ家庭教師を続けていた。大学院の1年目が過ぎようとしていた頃だった。月曜日の朝に大学に行くと主任教授が、「昨日浪越のところに電話をかけたが、電話が止まっているな」といいながら笑みを浮かべていた。そして、それからしばらくすると診療のアルバイト先を紹介していただいた。車もなく地方の在来線のため、朝一番の列車に乗らなければ診療開始時間に間に合わない。目覚ましが壊れて鳴らなかったではないかと疑いながら、取るものも取り敢えずバイクにまたがり乗車駅を目指すことが多かった。

そうなると「靴下カタカタ」はよくあることで、あまりの色の違いに自分が爆笑をすることさえあった。洗濯物はきちっと畳み、左右の靴下を揃える。それを守れる男子学生にはあり得ないことだろうが、何のことはないそのステップが欠落した生活を送っていたのだ。友人たちの話から判断しても、こんな一人暮らしを経験したのは私だけではないと確信している。失敗が続くと人は学ぶものだ。やがて鞄の片隅にはつねに靴下を常備するという必殺技を考案した。

診療所にはメインテナンスやSPTに通う患者さんが増え続けている。しかし26年前の開院から数年間は、義歯の作成を希望して来院する患者さんがたくさんいた。1日に十数床の義歯を装着した日があったことを口にすると、後輩たちは必ず驚いた表情を浮かべる。総義歯の症例も数多くあり、その中には歯科医師や歯科衛生士にしか出会わない「カタカタ」話があった。

「先生、最初は上手く咬めていたのに、ある時から何かおかしくなり咬めないのです」という。上下顎の義歯を取り出してみると、旧義歯と新義歯が片顎ずつ入っていた。十分に説明し、区別して渡したはずなのにどうして混じってしまうのだろう。この時私は「靴下カタカタ」に例えて説明したが、まさかネットに入れて洗濯機で回すはずもなかろうにと、苦笑していた。

ある時まったく咬めなくなったと家族が連れてきた患者さんの口の中をのぞいて見ると、下顎の義歯の人工歯が下になり裏返った状態で入っていた。さらに別の患者さんでは、上顎の義歯が下顎に装着されているという状況に出くわしたことがある。こうなると「靴下カタカタ」のように、上手く例えられるものは見つからない。