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むし歯の少ない町の歯科医師の日常 シーズン2:匂い

むし歯の少ない町の歯科医師の日常 シーズン2:匂い
むし歯の少ない町の歯科医師の日常 シーズン2:匂い
1月連休の朝、玄関前の大壺にいけられた蝋梅の花が、朝日を浴びて金色に輝いていた。郵便受けから新聞を取り出すと、「アルツハイマー新薬承認 米で暫定 認知症進行を抑制」という見出しが目に留まった。日本の製薬会社と米国製薬企業が開発したアルツハイマー病の治療薬「レカネマブ」について、FDA(米国食品医薬品局)が迅速承認を行った。対象は早期患者で、病気の原因である脳内に蓄積する「アミロイドβ(Aβ)」を除去し、認知機能の悪化を遅らせる新たな治療法として、世界中が注目している。

認知症は、脳の疾患別にタイプ分けされ、「アルツハイマー病」「レビー小体症」「前頭側頭葉変性症」「血管性疾患」が代表的な原因疾患で、これらを原因とするものを4大認知症とよんでいる。長寿化によってアルツハイマー病の人が増えていることから、この治療薬への期待は大きい。

この数年間で、診療室でも友人たちとの会話の中でも、介護や認知症というのは、お馴染みの言葉となった。それどころか私自身が、いろいろな場面で名前が思い出せなくなり、「あの俳優さんの出ている、あの映画のタイトルは……ここまで出かかっているのだけど……」などと口にしながら、「もしや認知症では?」と一瞬不安になる。そのたびに「認知症では覚えられない」「老化の物忘れは思い出せない」という言葉を付け加え、老化ということでと、笑いで片づけている。

父親が亡くなり10年以上が過ぎた。以前書いたエッセイの中でふれたことがあるが、彼は私が出会った人々の中では十指に入るヘビースモーカーで、禁煙を何度も口にするものの、いつの間にかタバコが指の間に復活するという日々を送っていた。タバコにまつわる強烈な思い出がある。

来客中にタバコを切らした父親から、姉と二人で近所の店にタバコを買いに行くことを頼まれた。幼稚園児の私と小学生の姉は薄暗い闇の中、店に行ったのだが、店を出た途端、私は暗闇が急に怖くなり走り出した。即座に顔面から転倒し、そして泣きながら帰宅したのだった。ニコチン依存症、今考えると一晩くらいタバコを我慢できなかったものかと、苦笑してしまう。喫煙場所の横を通り過ぎる時、わずかにタバコの匂いがすると一瞬父親のことを思い出す。

そんな父親が、ある日総合病院を受診し内科医から、「吸ってもいいが、もう少し吸うと酸素ボンベを持ち歩くようになりますよ」と言われて、ゴミ箱にタバコを捨てて帰ってきた。そしてそれ以後亡くなるまでタバコは吸わなかった。けれども話はそこでは終わらなかった。禁煙からしばらく経った頃、歩く姿がぎこちなくなりはじめた。地元の総合病院などで診断を受けるものの原因がわからず、大学病院に検査入院することとなった。当初大学病院の専門医も首をひねっていた。1週間くらい経った後、診療室に主治医から電話が入り、出かけると専門誌に掲載された症例報告と解剖学の教科書が机に載せられていた。脳血管に問題がある珍しい症例で、手術が必要だが完治は難しいとのことだった。ところが診断が下ったことで少し気が楽になっていた数日後、今度は執刀医から説明をしたいと連絡があった。結局喫煙のせいで、肺機能が低下しており、手術に耐えられるかどうかはわからない、麻酔医の判断に任せるが、手術できない可能性もあり、その場合余命は数か月とのことだった。

病室に戻り、ベッドに横たわる父親にそのことを告げると、握りしめた手を額に載せ黙って天井を見上げていた。その時の重い沈黙を溜め込んだ空気、そして病室の匂いは今でも思い出せる。

なんとか手術を受け退院はしたものの、入院を境に認知症の進行が加速した。そもそも「認知症」は「認知病」でなく「症状」のことをさす。その定義は1)何らかの脳疾患により、2)認知機能が障害されて、3)生活機能も障害される――という3つの条件が揃っていることである。誰かの支えがないと暮らすことが困難になるということだ。田舎暮らしの高齢者では、1日の行動パターンが決まっていることが多いので、アルツハイマー病になっても認知症と診断されない人も多いともいわれている。環境と生活リズムの変化が影響したことに間違いはない。

そうなると介護する母親への負担は日増しに大きくなり、施設への入所となった。だが、思わぬ事件が勃発する。施設から父親が外出し、行方がわからないとの連絡が入る。予定していた診療所の忘年会の開始時間を気にしながら捜索していると、施設職員から発見したと着信があった。本人は母親に剪定鋏だったか、ノコギリかを買ってやろうと出かけたのだと言ったらしい。そして、時節から考えれば蝋梅の枝きりのためだと考えられるので、蝋梅の花の甘い香りを嗅ぐと、この脱走事件の記憶が呼び起される。

父親のことを呼び起こすタバコと病室の匂いと、まるでその対極にある蝋梅の清涼感ある香りは、何とも奇妙な取り合わせである。とはいえ、認知症では嗅覚が一番に弱まるらしいので、彼が蝋梅の香りを認識できていたかどうかは不明だが……。

著者浪越建男

浪越歯科医院院長(香川県三豊市)
日本補綴歯科学会専門医

略歴
  • 1987年3月、長崎大学歯学部卒業
  • 1991年3月、長崎大学大学院歯学研究科修了(歯学博士)
  • 1991年4月~1994年5月 長崎大学歯学部助手
  • 1994年6月、浪越歯科医院開設(香川県三豊市)
  • 2001年4月~2002年3月、長崎大学歯学部臨床助教授
  • 2002年4月~2010年3月、長崎大学歯学部臨床教授
  • 2012年4月~認定NPO法人ウォーターフロリデーションファンド理事長。
  • 学校歯科医を務める仁尾小学校(香川県三豊市)が1999年に全日本歯科保健優良校最優秀文部大臣賞を受賞。
  • 2011年4月の歯科健診では6年生51名が永久歯カリエスフリーを達成し、日本歯科医師会長賞を受賞。
  • 著書に『季節の中の診療室にて』『このまま使えるDr.もDHも!歯科医院で患者さんにしっかり説明できる本』(ともにクインテッセンス出版)がある。
  • 浪越歯科医院ホームページ
    https://www.namikoshi.jp/
浪越建男

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