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むし歯の少ない町の歯科医師の日常 シーズン2:春の羽音

むし歯の少ない町の歯科医師の日常 シーズン2:春の羽音
むし歯の少ない町の歯科医師の日常 シーズン2:春の羽音
寒さが残る春の早朝、診療所の周りでは日毎に椿の花々が彩りと数を増していく。西に向かう通路の両側では、幾重にも並ぶ鉢植えの椿が背丈を伸ばし、いつの間にか見上げるような高さになった。その中で立ち止まり息を潜めると、メジロの群れが私の存在を無視しながら、花から花へと蜜を求めて飛び交い始める。胸の前を横切ると、その時に聞こえる羽音と鳴き声が、年々春の音としての印象を強めている。

日差しが椿の木々を照らし始め、花の色が鮮明に浮き出る時刻に同じ場所に立つと、あちこちからもう1つの春の羽音が聞こえ始める。ミツバチの到来だ。

院内勉強会など何かの機会に、ふと思いついたテーマについてスタッフに質問してみることがある。当然、私の口から今時の若者が興味をもっている、流行りの食べ物やファッション、芸能人、歌手などに関する言葉が出てくることはない。ほとんどは、日々の生活の中で意識せず見逃している自然現象や動植物のことになってしまう。そういえば似たような趣旨で出演者に質問をして、答えられないと「ボーっと生きてんじゃねーよ!」というテレビ番組は有名ではあるが、それほど高尚な質問をするわけではない。

ある時、「ミツバチがいなくなったら、地球、私たちの生活はどうなるでしょう。何が起きると思う?」と尋ねたことがある。するとスタッフが、「蜂蜜が取れなくなります」と返してきた。「うーん。間違いではないが……」と言い、それから私はハナバチ(花蜜を集めて蜂蜜を作るハチの総称)が植物の生態にとってはなくてはならない存在であることを説明した。

世界の食料の9割を占める100種類の作物種の7割はハチが受粉を媒介し、世界で収穫する作物の3分の1を受粉しているといわれている。ミツバチは自然の生態系だけではなく、私たちの食生活にもきわめて重要なものだ。その働きがなければ、今日私が食べたリンゴ、アーモンド、ブロッコリー、キャベツ、カカオ、ニンジン、タマネギ、梅も食卓には並ばなかったことになる。

話はそこで終止符を打ったが、私にはスタッフに続けて聞かせたかった話の続きがあった。地球上にはおおよそ2万種のハナバチがいるといわれているが、ハナバチ文化史において、とりわけ注目されるのはただ一種、それはミツバチなのだ。ミツバチは生物の中で唯一、ある種の技術を使い、外部から取り込んだ原料で何かを作り出すことができる。蜂蜜はミツバチの体の一部でなく、ミツバチが集めた原料から作られている。ウシやカイコの体からチーズやソーセージ、織物が作られていることを対比させると、その違いは理解しやすい。

さらに伝えたかったのは、数年前に読んだ『ミツバチの会議 なぜ常に最良の意思決定ができるのか』(トーマス・シリー著)に書かれた内容だった。この本を読んだのち、ミツバチを見かけると敬意の念を抱きながら眺めるようになった。

ミツバチの見事な社会性は、黄金色の巣板でできた巣や蝋蜜で作られた美しい六角形の小部屋、数万匹が協力する姿を見るだけでも理解できるだろう。ダンスによって蜜源の距離と方向に関する情報を暗号化していることに驚き、それが発見されたのが、1945年、第二次世界大戦終戦の年だったことを記憶している。

そしてミツバチ社会には人間顔負けの民主的、合理的な話し合いがあるという。ミツバチの巣は、1匹の女王バチと複数の働きバチから成り立つが、1つの巣に新しい女王バチが生まれたとき、古い女王バチが巣にいる働きバチを連れて集団で引っ越すが、これを分蜂という。新しい巣をどこにするかは、群れにとって生死にかかわる重要な課題である。庭木や軒下にミツバチが作る分蜂群が静かにぶら下がっている間、探索バチたちが新しい住み家の候補地を探し、持ち帰ったすべての情報を集約、民主的決定方法と驚異的な手際で、つねに全分蜂群を最良の新居へと案内するのだ。

ミツバチから学ぶ集団による良好な意思決定の3つの要件は、①多様な選択肢を明らかにする②その選択肢について情報を自由に述べる③最良の選択肢を選ぶために情報を集約する――とのことらしい。これを家庭や職場で活かすのはどうだろう。ミツバチたちは手に入る選択肢の中から最高の巣を選び出しているのだから。

昼休み、私は今日もミツバチを眺めている。ランドセルを背負い学校帰りに座り込んだレンゲ畑のミツバチの羽音と、見上げた春の青空が懐かしい。もうあれから50年以上も経っているのに。

著者浪越建男

浪越歯科医院院長(香川県三豊市)
日本補綴歯科学会専門医

略歴
  • 1987年3月、長崎大学歯学部卒業
  • 1991年3月、長崎大学大学院歯学研究科修了(歯学博士)
  • 1991年4月~1994年5月 長崎大学歯学部助手
  • 1994年6月、浪越歯科医院開設(香川県三豊市)
  • 2001年4月~2002年3月、長崎大学歯学部臨床助教授
  • 2002年4月~2010年3月、長崎大学歯学部臨床教授
  • 2012年4月~認定NPO法人ウォーターフロリデーションファンド理事長。
  • 学校歯科医を務める仁尾小学校(香川県三豊市)が1999年に全日本歯科保健優良校最優秀文部大臣賞を受賞。
  • 2011年4月の歯科健診では6年生51名が永久歯カリエスフリーを達成し、日本歯科医師会長賞を受賞。
  • 著書に『季節の中の診療室にて』『このまま使えるDr.もDHも!歯科医院で患者さんにしっかり説明できる本』(ともにクインテッセンス出版)がある。
  • 浪越歯科医院ホームページ
    https://www.namikoshi.jp/
浪越建男

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