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むし歯の少ない町の歯科医師の日常 シーズン2:音

むし歯の少ない町の歯科医師の日常 シーズン2:音
むし歯の少ない町の歯科医師の日常 シーズン2:音
診療所の周りで始まったほのかなホタルの光の点滅は、季節が春から夏へと向かっていることを知らせるシグナルである。駐車場の欅の枝に数個の明かりを見上げた翌日、診療を2時間で切り上げると北海道へと出張に出かけた。

高松空港からは北海道への直行便がなく、羽田空港での乗り換え搭乗口は遠い位置にあり、長い距離を歩くと多くの人々とすれ違う。どの空港でも、日本人や海外からの観光客で溢れていて、搭乗手続きが長引くためか到着便、出発便ともに遅れが生じ、人の塊ができあがっていた。

田舎の生活に慣れていると、人混みに入り込むと疲れてしまう。おまけに通路を歩いていても、椅子に座り本に目を落としていても、四方から他国の言語が耳に入ってくる。集団から溢れ出してくる聞き慣れない音に囲まれていると、違和感とも不安感とも違う不思議な感覚に襲われた。

思わず顔を上げ、人群を見渡してみた。日常生活を取り巻く音が確実に変わっているのに、おそらく多くの人々は、そのことを意識しないまま暮らしている。たとえば、レジや改札口で普通に聞く電子マネーの決済音は、10年前にはなかった音である。そんなことを考えながら、搭乗口に連なる乗客の列に並びQRコードの表示されたスマホをかざした。承認音が聞こえると少し安堵したのは、生活の中に完全に浸透した音となっている証拠かもしれない。

座席に座り出発を待ちながら「音」という言葉に拘っていると、大学生時代の音にまつわる忘れられない出来事がよみがえってきた。学部2年生の後期試験期間中だったと思う。深夜まで勉強をしていると、「ドンドン」をいう不思議な連発音が、天井の方向から聞こえ始めた。当時住んでいたアパートはプレハブ鉄骨だったため、静かな夜には階上や隣室からの物音が気になることが多かった。最初はさほど気に止めなかったものの、その聞きなれない音は徐々に大きくなっていく。天井を見上げ音源について考えていたが、やがてこれは風呂が沸騰する音だと確信した。

急いで外階段で二階に駆け上がり、上の部屋のドアを何度も叩いた。寝ぼけたような「は〜い」という声が聞こえたので、「風呂が沸騰していませんか?空焚きになっていませんか?」と大きな声で問いかけた。「あーっ!」という悲鳴のような声を聞いた瞬間に、背中を冷たいものが駆け抜けた。そしてその部屋の住人が、ガス風呂を沸かしたまま眠り込んでいたことと、夜間勤務のある不規則な職種だということを知った。しばらくしてその住人は引っ越していったが、私の耳の奥にはあの不気味な音が、しばらく消えずにこびりついていた。

翌年臨床実習が始まった頃、大学院に進学することを前提に大学病院の近くで転居先を探した。ちょうどその頃はバブル景気の始まりで、見慣れた通りのあちらこちらで古い建物が壊され、つぎつぎにビルやマンションの新築工事が始まっていた。新築物件も多く迷った後、その1つの1DKの部屋に移り住むことにした。

ところが臨床実習期間も終わり、本格的に国家試験の勉強を始めた頃、空き階だった2階で内装工事が始まった。しばらくはその振動をともなう工事音に耐えながら過ごしていたが、我慢も限界となり、学生控室や図書館に逃げ込んだ。工事が終わると姿を現したのは小さなパチンコ屋で、長く住もうという私の当初の目論見は外れることになったのだった。結局卒業と同時に騒音を逃れ、少し不便な場所に立つ、築30年以上のエレベーターなしの古びた5階建アパートの角部屋に落ち着くことになった。暮らしの中で音は重要な要件である。

出張から帰ってきた翌日、ネットニュースを見ていると「カエルの鳴き声へのクレームにSNSは非難轟々」という記事が目に留まった。そこにアップされた苦情のビラには、「田んぼの持ち主様へ  カエルの鳴き声による騒音に毎年悩まされています。 鳴き声が煩くて眠ることができず非常に苦痛です。 騒音対策のご対応お願いします。 近隣住民より」と記されていたらしい。それに対して多くの人が、「カエルに言えよ」「勝手すぎますね。田んぼが先にあってそこに引っ越してきたわけですし」「風流を楽しむ心がないなら田舎に来なくていいのに……」といった意見が多数リプライされたそうだ。アマガエルをはじめ、その他のカエルやクモやトンボも田の害虫を捕食し、田の生態系において重要な存在だ。そもそもカエルの鳴き声は自然音であり、騒音とは言わないだろう。

「音」という言葉が特に気になっていたこの数日間、診療室で気づいたことがあった。私が行う操作や処置時ではもちろん、器材の準備、片付け、掃除などすべての場面で音に気を配っているスタッフたちの姿には、心に訴えてくるものがある。

仕事を終え診療所を出てみると、カエルの合唱の中で月が稲田の水面で揺らめいていた。広がった風情を目と耳で味わう。

著者浪越建男

浪越歯科医院院長(香川県三豊市)
日本補綴歯科学会専門医

略歴
  • 1987年3月、長崎大学歯学部卒業
  • 1991年3月、長崎大学大学院歯学研究科修了(歯学博士)
  • 1991年4月~1994年5月 長崎大学歯学部助手
  • 1994年6月、浪越歯科医院開設(香川県三豊市)
  • 2001年4月~2002年3月、長崎大学歯学部臨床助教授
  • 2002年4月~2010年3月、長崎大学歯学部臨床教授
  • 2012年4月~認定NPO法人ウォーターフロリデーションファンド理事長。
  • 学校歯科医を務める仁尾小学校(香川県三豊市)が1999年に全日本歯科保健優良校最優秀文部大臣賞を受賞。
  • 2011年4月の歯科健診では6年生51名が永久歯カリエスフリーを達成し、日本歯科医師会長賞を受賞。
  • 著書に『季節の中の診療室にて』『このまま使えるDr.もDHも!歯科医院で患者さんにしっかり説明できる本』(ともにクインテッセンス出版)がある。
  • 浪越歯科医院ホームページ
    https://www.namikoshi.jp/
浪越建男

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