6月最終週の夕方、診療室と待合室の空調機能を担うビル用マルチエアコンに突然エラーコードが点滅し、室内機から暖気が吹き出し始めた。すぐに業者に連絡し、点検・修理を依頼したが、地元企業の担当者では修理不可能、製造元のサービスマンは翌々日の午後まで対応できないとのことだった。さらには故障原因によっては機能回復に時間がかかる可能性も告げられた。

スタッフ控え室や手術室、新館のエアコンの冷房温度を最強にし、ドアを開け放ち、現存する扇風機やサーキュレーターを総動員し、冷気が流れ込むように工夫はしたが、効果には限界がある。翌日、８台の冷風機を購入・設置し、この苦境を乗り越えることになった。ところが冷風機の列が風を送り出すと室内の湿度が上昇し、体感温度がどんどん高くなっていく。結局、いちばん頼りになるのは、強い日差しを遮ってくれる雲であることを実感した。

エアコンの故障、その復活に安堵した週末には、7月開催が決まっていた小さな店の小さなギャラリーでの写真展「スマホで撮った父母ヶ浜1500日 これは毎日漂着ごみを拾い上げながら出会った風景です」の準備が待っていた。雨の中、軽トラックに写真やパネルを載せ、ホームセンターで購入したトタン波板などを現地に搬入し、心強い助っ人の力を借りながら作業を始めた。しかし試行錯誤を重ねるものの、慣れない作業には時間がかかる。頭の中で思い浮かべるイメージどおりには、なかなか仕上がらないものである。やがて店は閉店時間となり、シャッターの降りた店内で、良い見栄えを探りながらさらに時間は過ぎていった。

写真を配置していると、やがて映画音楽の曲がフルートで演奏され始めた。私は映画には詳しいはずなのに、どうしても最後に聞いた曲名が思い出せずにいた。特に最近、人や物の名前が即座に思い出せないことも多く、そんな時いつも頭の中には白い柔らかな雲の映像が浮かんでくる。そのモヤモヤ雲を払拭するために、思い切って曲名を助っ人に尋ねてみた。「ノッティグヒルの恋人」という言葉のすべてを聞かないうちに、主演のジュリア・ロバーツとヒュー・グラント、この映画の挿入歌「She」を歌うエルビス・コステロの顔が浮かび、雲は消え去った。

写真展の準備は、いったんは完成として帰宅したものの、さらに手直しが必要と感じて翌日も足を運び、作業を終えるとすでに夕方になっていた。写真パネル50枚と、四季折々の風景などをコマ割りにした作品の前に立ってみると、気づいたことがあった。色彩豊かな風景を生み出すための鍵を握っているのは雲なのだ。

たしかに毎朝父母ヶ浜の漂着ゴミを拾い上げるなか、雲が形や色を変えながら現れたり、やがて消え去ったりする姿に見惚れる機会が多い。そしてその移ろいを見ながら、名曲ジョニ・ミッチェル「Both Sides Now」（青春の光と影）を口ずさむことが多い。平成生まれの諸氏には、2022年アカデミー賞を受賞した映画「Coda コーダあいのうた」で、主人公の女子高生が熱唱していた曲と紹介したほうが理解しやすいかもしれない。

歌の出だしで、雲を「天使の髪」「アイスクリーム」「羽の渓谷」と表現していることから、雲をみるとこの曲がすぐ思い浮かぶのだろうが、還暦を過ぎると、この曲で綴られている歌詞の意味の深さが心に響く。「Both Sides Now」は「今、二つの立場から」と言う意味で、季節を重ねた今、人生の経験をとおして若き日を思い返してみると違った見方ができたというのが、この歌詞のテーマである。周囲の人々と自分の意見や考えが相いれず気分が晴れない時は、窓の外の雲を見ながらこの曲の歌詞を思い浮かべるのもいいかもしれない。

今朝も梅雨空の下、浜に足を運び、線状降水帯が猛威を振るっている九州北部方向にかかる重い雨雲を見ながら、漂着ゴミを拾い上げている。またあの曲を口ずさんでいると、30年前の若い歯科医師だった私と、父と慕った恩師の姿がよみがえってきた。

今私は、あの頃の恩師と同じ年齢にいる。もうすぐ一周忌、当時のことを尋ねられないのが残念でならない。