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むし歯の少ない町の歯科医師の日常 シーズン2:古傷

むし歯の少ない町の歯科医師の日常 シーズン2:古傷
むし歯の少ない町の歯科医師の日常 シーズン2:古傷
地球温暖化の影響をより強く感じる夏だった。秋の虫の声に、蝉の声が重なる異常さについて不安げに語る患者さんの声に耳を傾けるとともに、20年後の地球を憂いながら、あわせて自分の20年後の姿も想像していた。その頃私は日本の四季を楽しみながら、健康に日々を過ごせているだろうか。

その翌日、開院以来お世話になっている保険会社の担当者から、加入している民間介護保険の対象年齢制限が、80歳から90歳まで延長されたと報告があった。要介護(要支援)認定者数は年々増加し、厚生労働省が公表している「介護保険事業状況報告」によると、2020年3月末で要介護(要支援)認定者数は669万人となっている。さらに2021年7月の調査では、80~84歳の26.1%、85~89歳の47.9%、90歳以上の73.9%の人が要介護認定を受けているらしい。すぐ手続きを希望し、指定医による健康診断を受けることになった。

指定された病院に足を運ぶと、担当した年配の医師は眼鏡を上げ下げしながら診断用書類を作成していく。最後に過去の手術歴について質問に応えると、虫垂炎手術と椎間板ヘルニア(内視鏡による)手術の瘢痕を確認し、「見えないなあ」と呟くと書類が仕上がった。ここは、手術をした医師の腕を評価する場面ではあるのだろうが、自分の肌の回復力を褒められたようでもあり、思わずニヤついたのだった。そう、体力だけには自信をもって生きてきた。

ところがそれから2週間ほど経ち、秋のヒンヤリとした空気に包まれ出した朝に階段を降りようとすると、右膝と左足首に違和感があった。久しぶりに古傷が顔を出した。どちらも三十数年前の怪我なのだが、忘れた頃に現れ、そのたびにコメディー映画のような出来事を思い出す。

右膝の怪我は、スキーシーズンの出来事だった。当時長崎に住んでいて、中国地方のスキー場に出かけることになった。早朝に出発し、広島あたりに到着した頃、コンビニで買い物をするために車を停車し、勢いよく走り始めた私に悲劇が訪れた。水に濡れたマンホールの蓋の上で転倒し、膝を強打し立ち上がれない。しばらくうずくまった後、足を引きずりながら車に戻ったが、目にはうっすら涙が浮かんでいた。スキー場に出かけ、ゲレンデ到達前に怪我をした。せめてもの思い出にと、宮島の厳島神社を眺めたのちに帰路につき、整形外科医院に直行した。手術を勧められたものの、スポーツ選手になるわけではないと温存療法を選択したが、赤い大きな鳥居の写真を見るたびに、その出来事が思い出される。

左足首の怪我に関して話すともっと笑いが起こる。大学院3年生の頃、私の書いた論文がきっかけとなり、多数の大学が参加して全国的な調査・研究が行われた。結果の提出期日が迫っていたため、連日深夜を過ぎても医局の机に向かっていた。たいへんだった仕事では、ゴールも見え始め安心すると空腹感に襲われることが多い。何か腹を満たすものをと思いながら、歯学部の建物の玄関ドアに近づいた時、「キャー、助けて」という女性の悲鳴が聞こえた。学部の坂道を下ると小さな飲み屋街があり、その方向に向かって全力疾走をしようとした途端、玄関前のわずか数センチの段差で足首を捻って悶絶した。立ち上がろうとするが立ち上がれない。玄関前の大きな楠の下に座り込みながら、心の中で今度は私が「助けて」と叫んでいた。

深夜の救急外来病院を調べて受診した。X線撮影をしたが、当直医だった内科医師は、眠そうな表情で「特に異常はない」と告げた。しかしゆっくりと左足を下ろしてみると、足首が少しずれていくのがわかる。翌朝、医学部病院の整形外科を受診すると、剥離骨折と診断され手術を勧められた。結局手術を回避して、ギブスに松葉杖という生活を選んだが、エレベーターのない古いアパートの5階に住んでいた私にとって、自分の部屋にたどり着くことが1日の最大の課題となっていた。

そしてこの話をすると必ず、「悲鳴をあげていた女性はどうなったの?」という質問を受けるが、翌日事件として報道されていなかったので助かったのだろう。一応、翌日の朝刊は確認したことも付け加えることにしている。

だいたい2、3日すると古傷の違和感は消える。大好きな秋の風に吹かれ、秋の空を見上げながら歩いていると、これ以上の幸福感はないように思う。たまに体や心の古傷が少しだけ顔を出すことはあるが……。

著者浪越建男

浪越歯科医院院長(香川県三豊市)
日本補綴歯科学会専門医

略歴
  • 1987年3月、長崎大学歯学部卒業
  • 1991年3月、長崎大学大学院歯学研究科修了(歯学博士)
  • 1991年4月~1994年5月 長崎大学歯学部助手
  • 1994年6月、浪越歯科医院開設(香川県三豊市)
  • 2001年4月~2002年3月、長崎大学歯学部臨床助教授
  • 2002年4月~2010年3月、長崎大学歯学部臨床教授
  • 2012年4月~認定NPO法人ウォーターフロリデーションファンド理事長。
  • 学校歯科医を務める仁尾小学校(香川県三豊市)が1999年に全日本歯科保健優良校最優秀文部大臣賞を受賞。
  • 2011年4月の歯科健診では6年生51名が永久歯カリエスフリーを達成し、日本歯科医師会長賞を受賞。
  • 著書に『季節の中の診療室にて』『このまま使えるDr.もDHも!歯科医院で患者さんにしっかり説明できる本』(ともにクインテッセンス出版)がある。
  • 浪越歯科医院ホームページ
    https://www.namikoshi.jp/
浪越建男

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