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むし歯の少ない町の歯科医師の日常 シーズン2:11月

むし歯の少ない町の歯科医師の日常 シーズン2:11月
むし歯の少ない町の歯科医師の日常 シーズン2:11月
子ども園での歯科検診を終えた昼休み、診療所に戻り裏玄関へと向かっていた。通路の両側、幾重にも重なる蕾を抱えた椿の枝々の隙間から、突然ツマグロヒョウモンが一匹飛び出して、目の高さでヒラヒラと舞い始めた。足を止め、視線だけでそれを追う。オレンジ色に黒い模様が浮き出た鮮やかな羽は、しばらく軽やかなダンスを披露した後、青空の向こうに消えていった。今の時期に羽化した蝶はどうやって冬を越すのだろうか? 今年は椿の開花も1か月遅れている。そんなことを心配していると、午後の診療が始まった。

スタッフに「暑くなってきたので冷房を入れよう」と声をかけた。続けて「鉢植えの椿の根元でスミレの花が咲いていた、11月だというのに……」と独り言のように呟いた。その時不意に私の発した11月という言葉が、頭の中でゴシック体の太文字のように画像化された。

私の脳の中には、「11月」という言葉に「お正月」という言葉をつなげる思考回路がいまだに残っている。それは徐々に弱くなってきてはいるが……。

30年前、故郷であるこの田舎町に診療所を開設した。開院後十数年間は、11月になると必ず「お正月までには歯を入れてほしい」と来院する患者さんがいた。また通院中の患者さんが、「先生、お正月までには治療が終わりますか?」と口にすることも多かった。そしてその言葉を聞くたびに、新年の足音が近づいていることと、この11月というのが、お正月までにと希望するための絶妙なタイミングであることをいつも感じていた。それは9月でも12月でもない至妙な期間、タイムリミットをつくりだす。

しかし歯科医療従事者の多くは、このような患者さんのその後の展開についておおよそ予測できると思う。そう、残念なことにこのような患者さんは、重度のう蝕や歯周病を長期間放置してきた確率が高いのだ。とにかく歯科医師としては「その期間で、できる限りのことはやってみます」と応えるしかない。そして特別な日「お正月」を過ぎると、その多くは診療所への足が遠のくというパターンに入っていく。

ところが平成から令和になってくると、お正月にこだわる声はめっきり少なくなった。たしかに当時の診療所がある田舎という環境では、「お正月は特別である」という風義が都会より色濃く残っていた。加えて今は、世の中全体が昔ほどお正月にこだわりをもたなくなっていることも間違いない。

さらに診療所の「お正月までに患者さん」がいなくなった要因の1つは、予防を基礎に据えた診療体系が整ったことだと思う。大多数の患者さんが定期的に来院し、またほとんどの新患は、私やスタッフが目指している歯科医療の姿を求めて来院する。昔のように11月になって慌てて、「お正月」という言葉を発する必要性がなくなっているのだ。

とはいうものの、お正月が特別であった時代が懐かしいとも思う。秋の七草の花が咲き終わり、秋のお月見、「十五夜」「十三夜」そして「十日夜」の頃には道端、草原、空き地にもススキが目立ち始める。11月、少し冷たい風に緩やかな弧を描きながら揺れる花穂の情景を目にすると、思わず車を止めしばらく見入ってしまうことも多い。ススキという植物の名前を覚えた時から、通学路でもその姿が目立ち始めると、「お正月は近いぞ」という言葉を頭に浮かべていた。単にお年玉目当てだったような気もするが、今でも11月になると「昭和のお正月」を懐かしく感じることがある。

紅赤色の椿の花を一輪挿しに生けた翌週、峠を越え隣町の坂を下ると、溜池の土手のススキの穂が光に輝いていた。車を止めてその姿に見入っていると、スマホから人気ダンスボーカルユニットの曲が流れ出した。ボーカルの歌声に昭和歌謡のテイストが感じ取れる。しばらくススキを眺めながめていると、まったく対照的な曲調の『昭和枯れすすき』という曲が思い浮かんだが、これは昭和生まれにしか通じないだろう……。

著者浪越建男

浪越歯科医院院長(香川県三豊市)
日本補綴歯科学会専門医

略歴
  • 1987年3月、長崎大学歯学部卒業
  • 1991年3月、長崎大学大学院歯学研究科修了(歯学博士)
  • 1991年4月~1994年5月 長崎大学歯学部助手
  • 1994年6月、浪越歯科医院開設(香川県三豊市)
  • 2001年4月~2002年3月、長崎大学歯学部臨床助教授
  • 2002年4月~2010年3月、長崎大学歯学部臨床教授
  • 2012年4月~認定NPO法人ウォーターフロリデーションファンド理事長。
  • 学校歯科医を務める仁尾小学校(香川県三豊市)が1999年に全日本歯科保健優良校最優秀文部大臣賞を受賞。
  • 2011年4月の歯科健診では6年生51名が永久歯カリエスフリーを達成し、日本歯科医師会長賞を受賞。
  • 著書に『季節の中の診療室にて』『このまま使えるDr.もDHも!歯科医院で患者さんにしっかり説明できる本』(ともにクインテッセンス出版)がある。
  • 浪越歯科医院ホームページ
    https://www.namikoshi.jp/
浪越建男

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