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むし歯の少ない町の歯科医師の日常 シーズン2:先生

むし歯の少ない町の歯科医師の日常 シーズン2:先生
むし歯の少ない町の歯科医師の日常 シーズン2:先生
白白明けの父母ヶ浜の空には銀灰色の雲が連なっていた。その積層雲を見上げながら漂着ごみを拾い上げる。やがて東の空では雲の底が柑子色に染まり、朝焼けが南から西へと反射され、浜を覆う雲がサーチライトを当てられたように紅葉色に色づき始めた。毎日朝の浜に立ってはいるが、それは初めて目にする光景だった。

帰宅するといつもどおりに、友人たちに浜の朝風景をS N Sで送信した。返信を期待してはいないが、1日の始まりを知らせる合図としては悪くはないものだと信じている。

ところがその朝は、すぐに返信を知らせる着信音が響いた。友人からのメールは、心から「先生」とよべる恩師の訃報を知らせる内容だった。あまりにも早い別れ、スマホ画面に現れた銀灰色の中に紅葉色が浮かぶ雲の写真を、心を落ち着かせようと長く眺めていた。

そもそもその先生は、学生時代に出会った他の教官とはどこか違っていた。あまり勤勉でなかった私が、他の教官から「浪越さん」とよばれることがなかったのでそう感じたのかもしれないが、今でいうパワハラからはいちばん遠い教官だということは、すぐに感じ取れた。それから40年間、私は「浪越さん」とよばれながら、たくさんのことを学ぶことになった。

歯科医師として歩んでいくうえで、学生時代に学んだことがどれほど大きく影響を与えているか、そのことを実感する出来事やエピソードを話題にする機会も多かった。そして自分の関わる患者さんのことだけでなく、歯科保健医療の専門家として地域住民や国民全体の健康増進につながる公衆衛生的視点をもち、活動できる歯科医師が増えることを願っていた。本来、歯科医師法第一条には「歯科医師は、歯科医療及び保健指導を掌ることによって、公衆衛生の向上及び増進に寄与し、もつて国民の健康な生活を確保するものとする」とある。

私たちの間では有名な逸話がある。1学年上の先輩たちが、ある日予防歯科学の講義を休みパチンコに興じていたらしい。ところが1日の講義時間が過ぎた後、その先生がパチンコ屋に現れ、近くの喫茶店に行こうと誘った。「今日の講義の内容は、どうしても君たちに理解しておいてほしい」と、そこで熱く語ったという。私も歯学部へと続く坂道を登りながら「浪越さん、『疑わしきは罰せず』です。削ろうかどうしようかと迷うようなう蝕は削ったらダメなんです」と何度も聞かされた。当時、歯科医師たちの多くは「早期発見、早期治療」を掲げていたように思う。

先生は、私が学部3年生になった頃、他の大学の助教授になりその後別の大学の教授に就任された。私は予防歯科学とは対極に位置づけられやすい歯科補綴学講座の大学院生となった。

それでも先生の教えが私の中には根づいていた。故郷で歯科診療所を開設したが、地元の子どもたちのう蝕の多さを目の当たりにした時に、先生の講義の内容や新潟県での集団的フッ化物洗口の成果が、活動の原動力となった。そして子どもたちのう蝕の少なさがマスコミに取り上げられるようになった頃から、連絡を取り合うようになり、再び繋がりは強くなっていった。幼稚園、小・中学校でフッ化物洗口を続けて育った町の子どもたちは、う蝕がほとんどなく30歳を超え始めている。もし私がこの先生に出会わなければ、この状況は生まれなかったことになる。

だれかが先生を「フッ化物の伝道師」と名づけた。先生は、う蝕予防における公衆衛生的施策として集団的フッ化物洗口はあくまでも次善の策、年齢や社会的要因などに関係なく、地域のすべての人々に恩恵をもたらす公衆衛生的施策の真髄というべきフロリデーション(水道水フッ化物濃度調整)の必要性を説き続けた。世界の学会や専門機関の見解を理解し、公衆衛生的視点で社会を眺めたならば、米国、オーストラリア、カナダなど多くの国が実施しているフロリデーションを、う蝕予防の施策から除外して考えること自体がナンセンスといえる。

今日も認知症の進行した患者さんが付き添われて来院したが、口腔内の状況を見るたびにフロリデーションという言葉を思い浮かべるのは、私だけなのだろうか。ロサンゼルス・ドジャースと10年契約を結んだ大谷翔平選手も、フロリデーションの恩恵に浴しながら生きている。

あの日からひと月が経つというのにあいかわらずコスモス畑は満開で、その艶やかさが心に染みる。今夜はどこからか弱々しい秋の虫の鳴き声も聞こえ、また悲しい秋の別れを思い出させた。スマホから聞こえた「浪越さん」という声が懐かしい。

著者浪越建男

浪越歯科医院院長(香川県三豊市)
日本補綴歯科学会専門医

略歴
  • 1987年3月、長崎大学歯学部卒業
  • 1991年3月、長崎大学大学院歯学研究科修了(歯学博士)
  • 1991年4月~1994年5月 長崎大学歯学部助手
  • 1994年6月、浪越歯科医院開設(香川県三豊市)
  • 2001年4月~2002年3月、長崎大学歯学部臨床助教授
  • 2002年4月~2010年3月、長崎大学歯学部臨床教授
  • 2012年4月~認定NPO法人ウォーターフロリデーションファンド理事長。
  • 学校歯科医を務める仁尾小学校(香川県三豊市)が1999年に全日本歯科保健優良校最優秀文部大臣賞を受賞。
  • 2011年4月の歯科健診では6年生51名が永久歯カリエスフリーを達成し、日本歯科医師会長賞を受賞。
  • 著書に『季節の中の診療室にて』『このまま使えるDr.もDHも!歯科医院で患者さんにしっかり説明できる本』(ともにクインテッセンス出版)がある。
  • 浪越歯科医院ホームページ
    https://www.namikoshi.jp/
浪越建男

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