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むし歯の少ない町の歯科医師の日常 シーズン2:30年目の春に

むし歯の少ない町の歯科医師の日常 シーズン2:30年目の春に
むし歯の少ない町の歯科医師の日常 シーズン2:30年目の春に
春は節目となる季節、日本中で満開の桜の花が優しくそれを告げている。予想もしなかった出来事に喜び、悲しみ、時折落胆や怒りも織り交ぜながら日々を過ごすなか、いつの間にか診療所は30年目の春を迎えていた。その間、街でも山でも桜が数を増し、そして枝を広げ、春にはとりわけ目立つ樹木となった。

4月初めには裏山にある「山の神祭り」がある。この祭りは五穀豊穣を祈る伝統行事で、春になると山の神が山から降りてきて田の神となり、秋には再び山に戻るという信仰から生じている。山の神は女神だといわれ、嫉妬深く、妻の異名として使われることもある。

今年はその祭りの世話役となった家族を迎えるために、愛車の軽トラに乗り、久しぶりに急勾配の山道を登ることになった。最後の坂道を目指しハンドルを右に切りアクセルを踏んでエンジンを吹かせると、山道に接する小さな川沿いに並ぶ薄桜色の重なりが目に飛び込んできた。思わず車を止め見入っていると、耳の中には鳥の声だけが響いて、地球上のどこか違う場所に佇んでいるように感じ始めた。目に映る何気ない風景や色彩への感動が、年齢を重ねながら強くなっていることは確かだ。

翌日郵便受けを開けると、年金受領手続きの書類が届いていた。封を開けていると、昨年参加した高校の同窓会で、受領開始年齢が話題となったことが思い出されたものの、目を通してもまったく頭に入ってこない。そのまま封筒に仕舞い込むことになった。日課である父母ヶ浜でのゴミ拾いも診療室での動きにも、変化はないと自負しているが、世間の常識からするとそろそろ仕事のペースダウンを迫られるような年齢になってきているらしい。

しかし、ほぼ徹夜をしながら原稿を仕上げた後の疲労回復の遅さに、体力的な衰えを実感した2月下旬、上京して何気なくあるギャラリーを覗くと「鉄腕アトム」の版画に目が止まった。一度は通り過ぎたものの、振り返り覗き込むと「もう少し頑張ろう」と話しかけられたような気がして、結局購入することにした。

私たちは鉄腕アトムの世代であり、年をとった今でも彼は永遠のヒーロー、院長室に立てかけたアトムに、時に「さあ、頑張りましょう」と言いながら、診療室に向かう還暦を過ぎた親父がここにひとりいる。

昨夏以来、受付には友人からの紹介で知り合った主婦兼アーティストが創作した歯ブラシスタンドが並べられ、それには私がリクエストした椿、昆虫、犬、猫などが一つ一つにていねいに描かれている。そのスタンドを最初に目にした受付スタッフの「100均ショップで無地のものを買っても、数百円するこのスタンドは購入する人はいないのでは」と言った言葉に反して、じわりじわりと購入者が増えている。そして今日午前中診療が終わった時、比較的長く残っていたクワガタとカブトムシの絵が描かれたスタンドが売れたと報告を受けた。

その日昼食を終え朝刊を開くと、いきなりクワガタに似た甲虫の小さな写真が目に止まった。「クワガタ」という言葉が頭の片隅に残っていたせいかもしれない。その記事には「年をとると長く戦う?」という見出しで、岡山大学の宮竹貴久教授(昆虫生態学)らの研究から、攻撃的な性質をもつクワガタに似た微小な甲虫「オオツノコクヌストモドキ」では、雌をめぐる雄どうしの争いにおいて、“おじいさん“に近い年を取った個体ほど戦う時間が長くなることがわかったと報告されていた。「若い雄はまだ繁殖の機会があることを見越し、次の戦いにエネルギーを残す一方、年老いた雄は残された時間が限られており、戦いに固執するとみられている」とし、さらに宮竹教授は「加齢と聞くと活力の低下が浮かぶが、結果は画期的で興味深い。他の種でも同じような傾向があるかもしれない」と述べていた。

雌を巡る戦いに参戦することは限りなくゼロに等しいが、歯科医師としての残された時間に、可能な限りのエネルギーを注ぐ「年取った個体」がいることは、もしかしたら自然の摂理――勝手にそんなことを思いながら院長室のドアを開けた。

「鉄腕アトム」と目が合うと「もう少し頑張ろうか」と話しかけられたように思えた。

著者浪越建男

浪越歯科医院院長(香川県三豊市)
日本補綴歯科学会専門医

略歴
  • 1987年3月、長崎大学歯学部卒業
  • 1991年3月、長崎大学大学院歯学研究科修了(歯学博士)
  • 1991年4月~1994年5月 長崎大学歯学部助手
  • 1994年6月、浪越歯科医院開設(香川県三豊市)
  • 2001年4月~2002年3月、長崎大学歯学部臨床助教授
  • 2002年4月~2010年3月、長崎大学歯学部臨床教授
  • 2012年4月~認定NPO法人ウォーターフロリデーションファンド理事長。
  • 学校歯科医を務める仁尾小学校(香川県三豊市)が1999年に全日本歯科保健優良校最優秀文部大臣賞を受賞。
  • 2011年4月の歯科健診では6年生51名が永久歯カリエスフリーを達成し、日本歯科医師会長賞を受賞。
  • 著書に『季節の中の診療室にて』『このまま使えるDr.もDHも!歯科医院で患者さんにしっかり説明できる本』(ともにクインテッセンス出版)がある。
  • 浪越歯科医院ホームページ
    https://www.namikoshi.jp/
浪越建男

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