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むし歯の少ない町の歯科医師の日常 シーズン2:灯り

むし歯の少ない町の歯科医師の日常 シーズン2:灯り
むし歯の少ない町の歯科医師の日常 シーズン2:灯り
台風被害のニュースを耳にすると、伊勢湾台風という名前が必ず浮かんでくる。それは、この台風が明治以降の台風災害として最悪の惨事をもたらした1959年が、私が生まれた年のためだろう。よく耳にする「災害対策基本法」は伊勢湾台風を教訓に成立したもので、さらに、昨今馴染み深くなった気象庁が発する台風の「特別警戒」は、伊勢湾台風クラスを基準としていることを知る人は意外と少ない。

今年8月下旬、マリアナ諸島で発生した台風10号は、日本の南をゆっくりと北上しながら上陸直前まで勢力を強め、自転車並みの速度でノロノロと迷走した。日本近海の海面温度が高く、偏西風が通常より北側に位置し、台風を流す力が弱かったことが、速度が遅い原因だと、専門家たちが解説していた。九州や四国で長時間の大雨となり、台風本体から離れた関東や東海などでも記録的な大雨となった。鹿児島県枕崎市で最大瞬間風速51.5メートルを観測したというニュースを見ながら、地球温暖化の影響で勢力を増しているこれからの台風には、経験則にとらわれない備えが必要なのだろうと考えた、そして養生テープを大量に購入し、翌日にはタテ、ヨコ、ナナメに青いテープを貼り付けられた窓ガラスが登場した。

台風が接近していたその週の後半には、大切な予定が2つ組まれていた。1つは地元の中小企業の歯科健診であり、もう1つは大阪での酒宴である。健診のアシスタントとして同行してくれる新人歯科衛生士と、台風の影響について話しながら、進行速度や進路を気にしていた。一方、コロナ禍の状況ではなかなか顔を合わすことができなかった先生たちとの久しぶりの酒席は、交通機関の運休で延期になるだろうと、早々にホテル予約をキャンセルした。

木曜日の午後、台風の影響はそれほど見られず、窓の青いテープは無駄骨となった。予定どおり歯科健診に出かけたが、慣れないせいか、思っていたより時間がかかる。あらかじめ渡していた問診票の住所を確認する。主に20歳代から40歳代、少数だが60歳代も含まれていた。口腔内の診査後、どこの町で育ったかと尋ねるのには理由があった。

開業2年目に、仁尾町内すべての施設での集団的フッ化物洗口の導入、実施を推奨した。それまで町内の仁尾小学校は、市内(当時は郡内)でもっともう蝕が多い学校として知られていた。28年経った今、4歳から14歳までフッ化物洗口を続けた世代が社会人となっている。カリエスフリーの人たちに、「この町で育ってよかったね。フッ化物洗口のおかげですよ」と言いながら喜びに浸る。他の町で育った修復物の多い人には、「仁尾町で育てば、むし歯にはならなかったかも」と話しながら、フッ化物の効果的な応用法を伝えていった。そして両群の口腔内の歴然とした差異に、歯科医学と歯科保健医療の底力を見たような気がした。

金曜日になると翌日から大阪までの交通機関再開の発表があり、すぐにまたホテルに予約を入れた。前述した大切な予定としたわけは、私にはどうしても会いたい10歳年上の歯科医師がいたからだ。歯科衛生士の歯周治療や SPT・メインテナンスの重要性、歯周病に関する確かな知識と技術を備えたデンタルチームの総合力がもたらす成果を目の当たりにし、衝撃を受けた頃に出会った歯科医師のひとりである。出会って2回目から私を「なみちゃん」と呼ぶようになり、いろいろとお世話になってきた。酒を交わしながらのその先生との話は、「歯科医師は狭い世界で過ごすことが多い。自分の診療室のことだけではなく、公衆衛生とか社会全体のことにも目を向けることも必要、そんな若手が増えてほしい」という結論に向かっていく。その時間が心地よい。

2次会も終わり、地下鉄の車中でその続きを話していると、近くにいた乗客のひとりが、一瞬私たちの方に視線を向け、それとなく聴き入っている様子を私は感じ取っていた。私より酔いがまわっていたその先生は気づかなかったかもしれないが、それは声を潜めていうものではなく、だれに聞かれても良い内容だと思っている。

電車を降りホテルにたどり着く。実は、時折宿泊するこのホテルの廊下をとても気に入っている。暗い廊下の部屋のドアの足元に小さな灯りが差していて、キザだといわれるかもしれないが、酔ってその廊下を歩く私には、人生のように思えて仕方がない。探りながら歩みを進めると、時々喜びという光が差してくれる。そんな風には見えないだろうか。

翌週水曜日、都合で企業歯科健診を受診できなかった7人が来院した。健診の最後に、集団的フッ化物洗口を実施しながら育った30歳代の男性と、フッ化物洗口が始まる前に育った40歳代男性が隣り合ったチェアに座った。その口腔内を覗き込むと、その状況の差に驚いた。カリエスフリーの歯列と処置歯10本の歯列、同じ町で生まれ育ったとは到底思えない。再度カリエスフリーの歯列を見ると、頭の中にホテルの廊下のシーンが浮かび、大きめの灯りがもう1つ点灯した。

著者浪越建男

浪越歯科医院院長(香川県三豊市)
日本補綴歯科学会専門医

略歴
  • 1987年3月、長崎大学歯学部卒業
  • 1991年3月、長崎大学大学院歯学研究科修了(歯学博士)
  • 1991年4月~1994年5月 長崎大学歯学部助手
  • 1994年6月、浪越歯科医院開設(香川県三豊市)
  • 2001年4月~2002年3月、長崎大学歯学部臨床助教授
  • 2002年4月~2010年3月、長崎大学歯学部臨床教授
  • 2012年4月~認定NPO法人ウォーターフロリデーションファンド理事長。
  • 学校歯科医を務める仁尾小学校(香川県三豊市)が1999年に全日本歯科保健優良校最優秀文部大臣賞を受賞。
  • 2011年4月の歯科健診では6年生51名が永久歯カリエスフリーを達成し、日本歯科医師会長賞を受賞。
  • 著書に『季節の中の診療室にて』『このまま使えるDr.もDHも!歯科医院で患者さんにしっかり説明できる本』(ともにクインテッセンス出版)がある。
  • 浪越歯科医院ホームページ
    https://www.namikoshi.jp/
浪越建男

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