カレンダーに今年最後のページが顔を出した日、一人の患者さんが診療チェアーに腰掛けながら、「私、先生にお礼を言わなければ……駐車場や庭の紅葉、楓の色合いがすばらしいです。ここにきてこんなに美しい風景に出会えるとは思っていませんでした。紅葉で有名な地元のお寺にも行きましたが、先生のところの方がキレイです」と話し始めた。そう言われてみるとたしかに、大きく育ってきた落葉樹たちが患者用とスタッフ用の駐車場から庭にかけて作り出す錦色の帯が、日光に照らされ空色に映えていた。 よく考えると、12月に鮮やかな赤色の紅葉を見上げるのは初めてのことだった。モンシロチョウを目にし、11月下旬というのにカマキリがいて、暖かい日にはカエルの声を聞いたこともあった。その会話を患者さんと交わした数日の間に、晩秋が一気に駆けぬけ冬本番に突入した。 すでにだれにでも気候変動の影響が実感できるものとなっている。人々からの「今年の夏は暑かった」という言葉は飽きるほど聞いた。残念ながら、温暖化がここでストップするわけではなくさらに加速化していくと、学者たちは警鐘を鳴らしている。ところが、日本では気候変動についての関心が低い。そのことを気にかけていると、イギリスの環境活動家ジョージ・マーシャル氏のことを知るようになった。 彼の「どうして人は多くの科学者が警鐘を鳴らしている気候変動問題について本気で考えようとしないのか」という質問に、ノーベル賞学者ダニエル・カーネマン氏(認知学・経済行動学)は、「この問題には人間を行動に駆り立てるための障害となる緊急性、確実性、損失という3つの局面が揃っている。すなわち『遠い将来』の『不確かな』、『損失』を避けるために、『今の犠牲』を必要とするからだ」と説明している。 「遠い将来」については、たとえば今目の前で火事が起こっているわけではない。いつかわからない未来に起きる問題であり、不要不急の課題ではないと考えてしまう。また「不確かな」は、戦争を仕掛けてくるテロリストのような明らかな敵が存在せず、しかも敵というのは自分たち自身の行動だったり、それ自体が被害を起こそうという意思があったりしているわけではない。そして「損失」においては、この問題を解決するための金銭的コスト、手間や時間をみずから負担しなければない。このような3つの障壁があるため、気候変動の話となると多くの人は難しく考えて、自分にとって都合の良い情報ばかりを無意識的に集め、不都合な情報は見ようとしないということなのだという。 この文章を読みすぐに頭に浮かんだのは、子どもの夏休みの宿題のことである。夏休みが始まると毎日が楽しくて宿題のことなど後回し、8月末という期限は「遠い将来」であり、そして試験のような敵(?)は存在せず、すべては自分の行動次第という「不確かさ」、さらに楽しい今の時間を犠牲にする「損失」。その時に人は、根本的にそんな生物かもしれないと考えた。 先日、米国の保全生物学者ソーア・ハンソン氏の著書『温暖化に負けない生き物たち』を開くと、「人間の脳は抽象的な脅威を理解しながらも、結果が出るまでに時間がかかったり、少しずつしか影響が及ばないと考える場合には、今後の参考程度にとどめてしまう。それゆえ、すばやい行動に関わる、もっと本能的で情緒的回路が起動することは滅多にない。それは私たちの祖先が、ライオンに襲われたりするような身体的な脅威、切迫した問題には上手く対処できるよう進化してきたからだ」と述べられていた。 なるほどと頷きながら、これは私たちの診療所で見え隠れする問題や課題の解決にもつながってはいないだろうかと考えた。毎日順調そうに動いている診療所でも、小さな問題や課題が見え隠れしていることは少なくない。だれかが発信した貴重な情報を参考程度にとどめてしまう院長やスタッフ、そして自分たちの行動が問題や課題を生み出していて、その解決のためには損失をともなう。自分自身の対応、行動を反省した瞬間でもあった。 翌日、車のルーフに舞い落ちた欅の葉が海に浮かぶ小舟のようだと見惚れていると、また1匹のモンシロチョウが頼りなく飛び去っていった。前述したハンソン氏によると、気候変動を生き抜くために多くの生き物たちは、すでにしたたかな戦略をとっているらしい。身近な問題から気候変動対策という大きな課題まで、解決の糸口はそれを認識した瞬間にある。
著者浪越建男
浪越歯科医院院長(香川県三豊市)
日本補綴歯科学会専門医
略歴
- 1987年3月、長崎大学歯学部卒業
- 1991年3月、長崎大学大学院歯学研究科修了(歯学博士)
- 1991年4月~1994年5月 長崎大学歯学部助手
- 1994年6月、浪越歯科医院開設(香川県三豊市)
- 2001年4月~2002年3月、長崎大学歯学部臨床助教授
- 2002年4月~2010年3月、長崎大学歯学部臨床教授
- 2012年4月~認定NPO法人ウォーターフロリデーションファンド理事長。
- 学校歯科医を務める仁尾小学校(香川県三豊市)が1999年に全日本歯科保健優良校最優秀文部大臣賞を受賞。
- 2011年4月の歯科健診では6年生51名が永久歯カリエスフリーを達成し、日本歯科医師会長賞を受賞。
- 著書に『季節の中の診療室にて』『このまま使えるDr.もDHも!歯科医院で患者さんにしっかり説明できる本』(ともにクインテッセンス出版)がある。
- 浪越歯科医院ホームページ
https://www.namikoshi.jp/