肩口を撫でる冷気で寝覚めた朝、屋外に出ると足下の草木は霜に覆われていた。冬の気配が濃くなっていることを感じながら、身震いをすると左側の耳塞感が気になりだした。 一昨年、同じ症状を訴え耳鼻咽喉科に通院したが、聴力検査結果は正常範囲内であり、経過観察ということになっていた。2回目の診察時に医師と相談のうえ、万が一の再発時の対応として多数の薬剤をいただいた。その後一年以上は症状もなく経過していたために、昨年お盆休み前の大掃除の機会に、廃棄処分してしまっていた。 その日は、耳閉感に加えてわずかな圧迫感だけが気になっていた。しかし前回の経験からそのうちにそれも消えるだろうと気楽に考えていた。年末に向かって患者予約を調整するには難しく、通院もできずに2、3日経った。やがてテレビやパソコンからの音源を耳にすると、前方からの音に加えて窓の外から選挙カーのウグイス嬢の声が聞こえるように感じられた。 1週間経った月曜日の朝、医局会で状況を報告し、前医とは別の耳鼻咽喉科医院の午前診療時間内に滑り込んだ。発症時期を確認した医師は「突発性難聴」だと診断し、「遅いなぁ。なぜ、すぐに来なかった」と呟いた。さらに左耳の低音域に難聴が認められる私の聴力検査結果と、学会誌に掲載された症例報告とを比べながら、この症例では発症当日に治療を受けて回復していることを説明した。あらためて発症からの来院までの経過時間を悔やみながら薬剤の処方箋を書き始めた。 自院診療室で聞き慣れたクラシック曲が二重に聞こえる。診療中活躍しているバキューム、口腔外バキューム、タービンの音などが混じる合成音が思っていたより辛い。時々左耳を塞ぎながら診療を続けていると、耳鼻咽喉科医と交わした会話がよみがえってきた。 「先生、ある人から回復するまでには時間がかかったという話を聞いたのですが……」という私の言葉に「回復するというよりその状態に慣れる人もいると思う」と言い、発症から数か月後に完全に回復した90歳の老女の話を付け加えた。最後に「神様は2つの耳を創ってくださっているので、大丈夫」と言いながら浮かべた笑みに、少し前向きな気持ちになったのは確かだ。医院を後にしながら、抜歯処置を受け落胆している患者さんにかける「幸いなことに残りの歯がある。この歯を全力で守りましょう」という歯科医師や歯科衛生士の一言は、患者さんにとっては尊い言葉となりうるとも考えていた。 そしてスタッフには、できるだけ右側から話しかけてもらうように頼んだ。左耳の音が聞き取りにくい自分の姿は、耳が遠くなった88歳の母親の姿と、会話時に浮かべる戸惑った表情を思い出させる。私の低い声は特に聞き取りにくいらしい。会話の途中で「わかった?」と聞くと、「半分くらい」と応えることも多く、大きな声で「後でメールをする」と言い別れると、返信メールは必ず返されてくる。自分自身が似た状況に陥り、初めてその人の不便さや辛さがわかるもの、このことを60歳を過ぎて再認識している。 それから数日が経つと、年末年始の休暇へと突入した。とにかく人工的な音が耳の奥、脳に響く。テレビのスイッチも入れず、パソコンはできるだけ音をなくして過ごすことにした。ついでに部屋の明かりもつけずに目を閉じていると、ふと私たちの祖先の聴力のことが気になりだした。 化石化した骨格構造には聴覚器官の解剖学的特性が残っていて、研究者は初期人類の聴力をかなり正確に推定することができる。ある研究によると、原始人は自然の中で狩りのコミュニケーションを取り合うために、中域周波数の音に対する聴力は現代人よりも優れていたらしい。そして進化により現代人の聴力は可聴帯域が広くなり、より高い音が良く聞こえるようになっているという。 そこで、休暇中はできるだけ自然の音だけを聞きながら過ごすことにした。隣町の半島の海岸に腰掛けていると、とにかく風の音が心地よい。そして木々の中で囀る鳥たちの声に癒される。犬や猫も突発性難聴になる。はるか昔、私たちの祖先たちも耳に違和感があったに違いない。その時も風の音や鳥の声は耳に優しかっただろう。そう思いながら澄み切った正月の空を見上げていた。
著者浪越建男
浪越歯科医院院長(香川県三豊市)
日本補綴歯科学会専門医
略歴
- 1987年3月、長崎大学歯学部卒業
- 1991年3月、長崎大学大学院歯学研究科修了(歯学博士)
- 1991年4月~1994年5月 長崎大学歯学部助手
- 1994年6月、浪越歯科医院開設(香川県三豊市)
- 2001年4月~2002年3月、長崎大学歯学部臨床助教授
- 2002年4月~2010年3月、長崎大学歯学部臨床教授
- 2012年4月~認定NPO法人ウォーターフロリデーションファンド理事長。
- 学校歯科医を務める仁尾小学校(香川県三豊市)が1999年に全日本歯科保健優良校最優秀文部大臣賞を受賞。
- 2011年4月の歯科健診では6年生51名が永久歯カリエスフリーを達成し、日本歯科医師会長賞を受賞。
- 著書に『季節の中の診療室にて』『このまま使えるDr.もDHも!歯科医院で患者さんにしっかり説明できる本』(ともにクインテッセンス出版)がある。
- 浪越歯科医院ホームページ
https://www.namikoshi.jp/