山の緑に濃淡のある桜色が彩りを添える頃、診療を終えても西空に茜色が残るようになる。椿の花々の色彩を楽しめる時間が増えることで、1日の時間が加算されているような錯覚を感じ始めた。その日、たびたび多機能スマートウォッチを覗き込んでいる自分の姿が、駆け足で迫ってくる夕闇の走力を測定している陸上競技のコーチのようだと頬を緩めてしまった。 現在、多機能スマートウォッチを左手首に装着し、毎日を過ごしている。携帯電話やスマホを持ち歩くようになってからは、腕時計の必要性を感じたことはあまりなかった。椎間板ヘルニアの内視鏡手術を受けたこともあり、筋力低下防止のためにスポーツジムに十数年間に通い続けてもいるので、健康には絶対的な自信があった。 ところが、健康に少し不安を感じ始めるような出来事があり、3年前から健康管理に役立てようと多機能スマートウォッチを購入した。 使い始めてみると時計機能以外に健康管理はもちろん、音楽やSNS、天気など幅広いジャンルで使いやすいアプリがあり、装着したその日からそれらの機能に驚かされている。これは時計というよりデバイス色が濃い代物だと思う。 ちょうど多機能スマートウォッチを購入する直前に参加した酒席では、腕時計談義に大きな花が咲いていた。私は聞きなれないブランド名が飛び交う傍で、いつもより早いペースでグラスを空けるしかなかった。その帰り道、「皆さん腕時計に詳しくて、こだわりがあるようですね。私はまったく興味ないので価値がわかりません……」と口にした。すると隣にいた先生が「まず浪越先生は、女性から接客を受けるような場所などには行かないでしょう。だから必要はないのですよ」と笑みを浮かべた。それを聞き、腕に付けるのは時計というよりジュエリー色の方が濃いということだと理解した。酒席の話の内容の一部から判断して、現在では投資という意味合いも少しは含まれているのかもしれないが……。 そもそも「時計とは何か」と聞かれても、ほとんどの人はその本質を正確に把握していないので答えに困ってしまうだろう。周期的な動きをするものを用いれば、それは「時計」となり得る。つまり周期運動をするもの、周期長さは無限にあるので、私たちは無限の時計に囲まれて生きていることになる。 さらには生まれた時から「時間」の中にいるのに、「時間とは何か」と聞かれても、「我々凡人は謎です」と答えるしかない。できることは物理学が明らかにした時間の性質を「そうなのか」と受け入れることぐらいだろう。実感はあるのに実体がないという特徴をもつ「時間」を、「時計」を基準にして数を数えているのだ。 私たち歯科医療従事者がもっとも多くの時間を過ごす診療室には、予約制という根本的な体制が横たわっている。そして真剣に診療に向き合っていると、時間経過というものを意識しなくなっていることもある。たとえばマイクロスコープを覗き込んでいる右側から、「16時予約の患者さんが15分も待たれています」という声を聞いた瞬間に、時の流れを感じるようになる。 そんな時、何かの本で読んだ「私たちは時間が流れているからものが動くと考えてしまいがちですが、自然な発展の順序から言えばこれは逆です。ものが動くから時間が認識できるのです」という言葉を思い出してしまう。 術者側の一方的な視点から説明すると、処置が進んだ(ものが動いた)から時間が認識できる。もし患者さんが口を開けた瞬間の状態で止まってしまっていたら、時間は流れなかったことになる。「前の患者さんの処置、そして私の処置も進んだので時間が流れたのだ」と理解してくれる患者さんがいれば表彰状を渡したい。そんなことも考えては苦笑する。 ついでに「時間は絶対的なものではなく、伸び縮みするもので、高速で移動するロケットの中では時間の進み方が遅れる」というアインシュタインの相対性理論も思い出すことも多い。あり得ないことだが、待合室での時間の長さと診療室での時間は伸び縮みしているような……申し訳ないが、受付スタッフは待たされている患者さんの痛い視線を浴びているだろう。 午前の診療が終わりに近づくと、ぐぅ~とお腹が鳴った。時間を認識するこの腹時計も案外正確らしい。

著者浪越建男
浪越歯科医院院長(香川県三豊市)
日本補綴歯科学会専門医
略歴
- 1987年3月、長崎大学歯学部卒業
- 1991年3月、長崎大学大学院歯学研究科修了(歯学博士)
- 1991年4月~1994年5月 長崎大学歯学部助手
- 1994年6月、浪越歯科医院開設(香川県三豊市)
- 2001年4月~2002年3月、長崎大学歯学部臨床助教授
- 2002年4月~2010年3月、長崎大学歯学部臨床教授
- 2012年4月~認定NPO法人ウォーターフロリデーションファンド理事長。
- 学校歯科医を務める仁尾小学校(香川県三豊市)が1999年に全日本歯科保健優良校最優秀文部大臣賞を受賞。
- 2011年4月の歯科健診では6年生51名が永久歯カリエスフリーを達成し、日本歯科医師会長賞を受賞。
- 著書に『季節の中の診療室にて』『このまま使えるDr.もDHも!歯科医院で患者さんにしっかり説明できる本』(ともにクインテッセンス出版)がある。
- 浪越歯科医院ホームページ
https://www.namikoshi.jp/
