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むし歯の少ない町の歯科医師の日常 シーズン2:秋になると……

むし歯の少ない町の歯科医師の日常 シーズン2:秋になると……
むし歯の少ない町の歯科医師の日常 シーズン2:秋になると……
毎年、傾城(けいせい)という椿の花が開き、椿の季節の到来を告げる。ところが開花時期は年ごとに遅れていて、今年は11月になってようやく珊瑚珠色の蕾が枝を賑わせるようになった。

この椿が初めて付けた一輪の花を医院の待合室に生けた2007年、NBL(日本プロ野球リーグ)の日本シリーズが開催されていて、すでに景色は秋の気配に溢れていた。しかしその頃すでに野球好きの私の興味は、NBLからMLB(メジャーリーグベースボール)へと完全に移行していたので、そのシリーズの結果はまったく記憶に残ってはいない。いまや大谷翔平選手などの活躍により、日本人の多くにその傾向が漂い始めている。

とはいうものの、日本シリーズの開催を耳にすると、私には必ず特別な感覚がよみがえってくる。日本シリーズの時期に、高校の教室の窓から眺めた秋の青空、色づいているポプラの枝、そして教師の声に関心を寄せることもなく、ただ試合の経過を気にかけながら、その風景を眺めている学生服の自分の姿がそれに重なっていく。それは映画の中によくある「こころここにあらず」の主人公の高校生が登場するワンシーンのようだ。

午後の教室で穏やかな声で話す国語教師、私は空想と現実の世界を行ったり来たりしながら、間欠的に教師の言葉を拾い上げていた。そんな状態だったので、授業や教科書の内容はまったく頭に残るはずはない。しかし、どういうわけかその授業で聞いた教師からの一言と、それを口にした表情だけは記憶に残された。「本を読みましょう。若いうちに古典文学を読んだ方がいいですよ。歳をとってからは、なかなか読めるものではありません」。

あの時の教師の言葉のおかげで、私は約半世紀もの間、本を読みながら、直接できない体験、行くことのできない場所、会うことのない時代の人と接することができていると思っている。そして時々教師の言葉を思い返し、はるか昔に読んだ古典文学の一冊を引っ張り出してきてページを捲ってみることもあるが、それはとても楽しい時間だ。

珊瑚珠色の蕾を抱えた椿の枝を花器に挿した日の昼休み、他の椿の蕾の状態を確認するために、駐車場に隣接する椿の森へと足を運ぶことにした。庭師からの提案によりあえて残してある雑草が、向こう脛あたりまでうっすら茂り、その間をルリシジミチョウが乱舞しているなかで立ち止まる。シジミチョウの名前の由来は、貝のシジミのような小さな蝶という意味である。

まだ蕾が硬い椿の木々の間でシジミチョウを見ていると、朝に観た連続テレビ小説「ばけばけ」の中で、「しじみ売り」をしている小泉八雲の妻・セツの姿が思い出された。そういえば、この番組が始まってすぐに、スタッフたちに小泉八雲について尋ねたことがあった。スタッフの多くが首を傾げる姿に、「耳なし芳一」「雪女」などのストーリーを説明したが、それに応えるような反応は示されなかった。

考えてみると「読書の秋」という言葉を聞く機会がめっきり減っている。若者の活字離れが指摘され始めて久しい。その理由として「辛いから」「時間がもったいないから」「楽しくないから」「書き手が知らない人だから」「ネットの方が便利だから」を挙げる記事を読んだことがある。そして結局、読書の良さをいくら言われても、「本自体にアクセスすることが面倒だ」がその理由だと結論づけられていた。しかし私自身はそのことが理解できない。面白そうだと思って本を手に取り読む。知らないことを知ることは楽しい。わからないことはわかるようになりたいとページを捲る。そうすると、思いがけない視点や考えとも出会う。そして本が山積みになっていく。

その週末、学会へと向かう岡山駅で、高校時代のクラスメイトらしき人物とすれ違った。一度通り過ぎたものの、引き返して声をかけるとやはり彼だった。48年ぶりの再会である。連絡先を交換した後、高校の教室の前方で教師の授業を熱心に聞き入っていた彼と、窓の外をぼんやり眺めていた自分の姿をまた思い出し、ひとり笑みを浮かべながら改札口を通り過ぎた。鞄の中で本が揺れている。


著者浪越建男

浪越歯科医院院長(香川県三豊市)
日本補綴歯科学会専門医

略歴
  • 1987年3月、長崎大学歯学部卒業
  • 1991年3月、長崎大学大学院歯学研究科修了(歯学博士)
  • 1991年4月~1994年5月 長崎大学歯学部助手
  • 1994年6月、浪越歯科医院開設(香川県三豊市)
  • 2001年4月~2002年3月、長崎大学歯学部臨床助教授
  • 2002年4月~2010年3月、長崎大学歯学部臨床教授
  • 2012年4月~認定NPO法人ウォーターフロリデーションファンド理事長。
  • 学校歯科医を務める仁尾小学校(香川県三豊市)が1999年に全日本歯科保健優良校最優秀文部大臣賞を受賞。
  • 2011年4月の歯科健診では6年生51名が永久歯カリエスフリーを達成し、日本歯科医師会長賞を受賞。
  • 著書に『季節の中の診療室にて』『このまま使えるDr.もDHも!歯科医院で患者さんにしっかり説明できる本』(ともにクインテッセンス出版)がある。
  • 浪越歯科医院ホームページ
    https://www.namikoshi.jp/
浪越建男

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