スウェーデンの歯学部では、PhDプロジェクトは日本のそれより大規模で、遂行には長期間を要します。そのため、PhDプロジェクトの内容を見れば、その講座が何に力を入れ、どういう方向に進んでいるのかが把握できると思います。本コラム記事では2026年6月にスウェーデン・マルメ大学歯学部を訪れたことを機として、私が26年間見てきた同学部カリオロジー講座のPhDプロジェクトのテーマの変遷を追って、日本の歯科界の明るい将来像を描いてみたいと思います。スウェーデン・マルメ大学歯学部カリオロジー講座を入ったところ 今からちょうど26年前の2000年8月1日に最初にマルメの地に降り立ってから、コロナ禍の3年間を除き、毎年1〜2回のペースでこの地を訪れ、数え切れないほど、この茶色いレンガ造りの建物に足を運びました。大阪のじっとりと湿った猛暑を後にして到着した北欧の空気は、まるで早春のように爽やかで澄んでいました。その気候の落差から始まり、スウェーデンと日本の様々な面での相違を学ぶ月日が今日まで続いています。
レンガ造りの歯学部校舎。5階にカリオロジー講座がある。 留学生活を始めてすぐに、「ここがカリオロジー講座の心臓部だよ」と当時の主任教授が言いながら、広々とした実験室を案内してくれました。その言葉通り、同講座は齲蝕という疾患を基礎から臨床、疫学まで一貫して研究する中でも、伝統的に口腔細菌学が強く、唾液中ミュータンスレンサ球菌群の濃度の測定をチェアサイドで行える「ストリップミュータンス」という唾液検査の発祥地でした。私が留学していた間にはDNAフィンガープリント法によるミュータンスレンサ球菌群の分布、ミュータンスレンサ球菌群に対する免疫、深部齲蝕の口腔細菌の分析といったミクロ分野のPhDプロジェクトが進行しており、その他にも、齲蝕原性菌を含む様々な齲蝕関連因子を扱いながら総括的にリスク評価を行うプロジェクトが進行していました。 それから時が過ぎ、コロナ禍前後には、マルメ大学歯学部全体が組織再編されて、カリオロジー講座は他の2つの講座(歯内療法学、口腔顔面痛・顎機能)と合併し、より大きな「セクション」の一部となっていました。かつて心臓部と呼ばれたあの実験室を含めてそれまでの教授室や図書室などは、いまや口腔顔面痛・顎機能分野へと明け渡され、医局員数も、当時のおよそ半分にまで減少していました。 1970年代以降、予防中心の歯科医療への転換によって、スウェーデンは齲蝕予防を劇的な成功に導きました。その成功は、齲蝕という疾病構造を劇的に変化させ、結果としてカリオロジーという学問領域が扱うべき対象を年々小さくしていったのかもしれません。組織の縮小は、その象徴のように映ります。日本もその流れに遅れて、現在、同じような顕著な齲蝕減少が観察されています。日本の歯学部にカリオロジー講座はありませんが、近い将来、齲蝕に関連する講座の再編成や縮小の波が押し寄せるかもしれません。 しかし、疫学調査をよく見ると、この齲蝕の劇的な減少にもかかわらず、他のNon-Communicable Diseases (NCDs) に比べても、有病率はスウェーデンでさえ依然として高いことが分かります(2024年の19歳時で有病率が50%以上)。さらに、疾患の分布は不平等に偏っています(2024年の19歳のSiC指数が約4.5:SiC指数とは齲蝕経験(DMFT)が最も多い者の上位3分の1におけるDMFT平均値を指す。目標は3未満)。つまり、歯科医療従事者の課題はたくさん残されているわけです。 2026年5月、カリオロジーを含むセクションから新しいPhDホルダーが生まれました。そのPhDプロジェクトは「齲蝕予防における健康生成論(サルトジェネシス)」です。健康生成論とは、医学社会学者アーロン・アントノフスキーが提唱した概念で、「なぜ人は病気になるのか」を問う従来の疾病生成論(パソジェネシス)に対し、「なぜ人は健康でいられるのか」を問う視点です。ストレスや逆境にさらされながらも健康を保てる人と、そうでない人がいるのはなぜか。その鍵として、自分の置かれた状況を理解し、対処し、意味を見出す力である「首尾一貫感覚(SOC)」という概念が重要な役割を果たします。疾病の原因を取り除くことに主眼を置く疾病生成論に対し、健康生成論は、人が本来持つ健康を維持・増進する資源やプロセスに焦点を当てる、いわば発想の転換なのです。
今から振り返ると、2011年に発行された「成人歯科医療についてのナショナルガイドライン」の7つの章の1つが「行動変容」に当てられていたことは注目に値します。全歯科分野を7つの章に分けたうちの1章を割いているというのは、かなりの重要度です。この頃から、カリオロジーを含めてスウェーデンの歯科医学の方向性として医療心理学的な要素が確立していたと思われます。健康生成論に目を向けられたのもその一環ではないでしょうか。 確かに歯科医学という枠組みそのものは小さくなっているのかもしれませんが、それはまるで、この宇宙を飲み込むブラックホールの向こう側に、想像もつかないほど広大な別の宇宙が広がっているかのようです。枠は縮んでいるのに、そこから見える世界はむしろ無限に拡大しているという、そんな逆説的な感覚を強く抱いています。 ところで、歯科医学、そしてカリオロジーの世界でも、実は「疾病生成論」や「健康生成論」という言葉こそ使わずとも、それに近い考え方はすでに存在していました。たとえばカリエスリスク評価モデル「カリオグラム」の10のパラメータには、リスクファクターというよりは、ベネフィットファクターというべき「フッ化物プログラム」が組み込まれています。リスクに着目する発想と、ベネフィットに着目する発想の併存は、疾病生成論と健康生成論の両論で疾患を見ていたと言えましょう。医学や心理学や社会学などが用いているこうした専門用語を共有することで、他分野の専門家との議論は格段にスムーズになります。同じ現象を語っていても、使う言葉が違えば対話は成立しにくいでしょうが、共通言語を持つことで、学際的連携はシームレスに行えるようになり、それが広大な別宇宙へと私たちを誘ってくれるのだと思います。 (Katharina Wretlind先生 パーソナル・コミュニケーション 2025年12月13日) 26年前の留学時に、驚きをもって見聞きしたスウェーデン社会の先進的な姿が、今では日本でごく普通に見られるということがいくつもあります(例:父親の育児参加、離婚率の上昇、銀行の無人化など)。この事実に触れるたびに、スウェーデンの「現在」は、日本の「近未来」を先取りして見せてくれているような気がします。だとすれば、日本の歯学部にも、これから大きな広がりが訪れる可能性があるのではないでしょうか。組織としてのカリオロジー関連講座が縮小して見えたとしても、その先には、他分野との対話によって開かれる別宇宙があるのかもしれません。 その準備のために、私自身、歯科医学という枠を超えて、理論ベース・エビデンスベースの会話を他分野の専門家と交わせるよう、これからも学び続けていきたいと思います。
PhD学生の口頭試問が行われるマルメ大学歯学部大講義室 参考文献 Emanuelsson IM. Mutans streptococci--in families and on tooth sites. Studies on the distribution, acquisition and persistence using DNA fingerprinting. Swed Dent J Suppl. 2001;(148):1-66. Petersson GH. Assessing caries risk--using the Cariogram model. Swed Dent J Suppl. 2003;(158):1-65. Wallengren ML. HLA, salivary IgA and mutans streptococci--is there a relation? Swed Dent J Suppl. 2004;(166):1-67. Lager AH. Dentine caries: acid-tolerant microorganisms and aspects on collagen degradation. Swed Dent J Suppl. 2014;(233):9-94. Nordström M. Caries-free against the odds—salutogenic resources in young adults. (Doctoral dissertation). Malmö: Malmö University Press. 2026. Mittelmark MB, Bauer GF, Vaandrager L, Pelikan JM, Sagy S, Eriksson M, et al. The handbook of salutogenesis: Springer; 2022. Karies bland barn och ungdomar – 2024 https://www.socialstyrelsen.se/contentassets/e3a3f8570c314d5cac70a66df33c5997/2025-6-9683.pdf Nationella riktlinjer för vuxentandvård – Stöd för dig som besöker tandvården https://www.socialstyrelsen.se/publikationer/nationella-riktlinjer-for-vuxentandvard--stod-for-dig-som-besoker-tandvarden-2011-11-6/
著者西 真紀子
NPO法人「科学的なむし歯・歯周病予防を推進する会」(PSAP)理事長・歯科医師
㈱モリタ アドバイザー
略歴
- 1996年 大阪大学歯学部卒業
- 大阪大学歯学部歯科保存学講座入局
- 2000年 スウェーデン王立マルメ大学歯学部カリオロジー講座客員研究員
- 2001年 山形県酒田市日吉歯科診療所勤務
- 2007年 アイルランド国立コーク大学大学院修了 Master of Dental Public Health 取得
- 2018年 同大学院修了 PhD 取得
- NPO法人「科学的なむし歯・歯周病予防を推進する会」(PSAP):
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