当直中の消灯された21時すぎに、電話がきました。 「夕食をとっていたら義歯が壊れてしまって」はあ……「診てほしいんです」 えーっと……。 痛くもないし、腫れてもないんですよね? 「ええ」 困りますか? 一般的には、明日の朝は食べにくいかもしれませんが、明日になってきていただいたほうが、いつも診てくださっている診療科の先生方が診てくださるので、いいとは思うんですよね。 この時間にわざわざお越しいただいても、こちらは入院の方用の病棟ですので、材料もありませんし、応急処置しかできませんが。 「それでも今日診てほしいんです」 (この人は変わった方なのかな?なにを言っても変わらないかな?) では、いらしていただければ拝見します。前も夜の時間にいらしたことはありますか? 「ええ」 (やっぱり、変わった方か?) では、どのくらい時間がかかりますか? 「30分くらいかと思います」 わかりました。ではお待ちしています。 という電話の後、病棟から「いらっしゃいました」と呼ばれて行ってみたら、全盲の女性でした。 治療しているのは上顎の義歯で、彼女が壊れたと言ったのはその義歯でしたが、問題が生じていたのは下顎臼歯部でした。なるほど、これは「なにが起こっているのかわからないから心配で診てほしい」とは思うだろうなとは思いました。 見える、診たことを言葉で説明したら、「とても安心した」と喜んでくださいました。病院の出口まで、ガイドをさせていただき、お見送りしました。 僕の心を、とてもあたたかくしていただきました。そして、何事も決めつけてはいけないな、と反省しました。 2年ほど経って、ふと、思い出しました。なぜあの方は、「盲だ」と言わなかったのでしょうか。もしくは、言えなかったのでしょうか。 「自分は盲なので見えなくて状況が判断できず、緊急性もわからず心配なので、今から診てほしい」と言ってくだされば、すぐに「ではいらしてください」と答えただろうとは思います。 しかしそれは、僕自身の中に「盲者だから」という特別待遇、悪く言えば、差別なり区別なりがあるということかもしれません。彼女は「盲者だから」と扱われるのが嫌で、盲だと言わなかったのかもしれません。 今さら聞けませんから彼女の真意はわかりませんが、彼女が言わなかったことにより、僕は盲者や障害者を差別する人にならないで済んだのかもしれません。彼女に救われたんだ、というそんなことを、2年も経ってから気づきました。 どんな方だから、という、決めつけなしに、診なければいけないと思います。時代とともに、病院収益も働き方改革もうるさく言われるようになり、こちらの対応もどうしても効率的になります。結果的に、難民化させてしまい、困っている人が増えているのではないか、とも、心配になります(了)。
著者中久木康一
東京医科歯科大学大学院医歯学総合研究科 救急災害医学分野非常勤講師
略歴
- 1998年、東京医科歯科大学卒業。
- 2002年、同大学院歯学研究科修了。
- 以降、病院口腔外科や大学形成外科で研修。
- 2009年、東京医科歯科大学大学院医歯学総合研究科 顎顔面外科学分野助教
- 2021年から現職。
学生時代に休学して渡米、大学院時代にはスリランカへ短期留学。
災害歯科保健の第一人者として全国各地での災害歯科研修会の講師を務める他、野宿生活者、
在日外国人や障がい者など「医療におけるマイノリティ」への支援をボランティアで行っている。
著書に『繋ぐ~災害歯科保健医療対応への執念(分担執筆)』(クインテッセンス出版刊)がある。