Dental Life Design

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むし歯の少ない町の歯科医師の日常
第1回:2つの日本一

2019/12/24 デンタル〇〇デザイン

ケヤキの葉が色付き始めた日、見慣れない車が玄関の近くに停車した。後部座席からゆっくりと降り立った男性高齢患者にはかつての足取りの面影はなく、歩幅や歩行速度には加速度的な時の流れが感じられた。おそらく自動車の免許も返納したのだろう。診療室に入った後の診療チェアーまでの距離さえ長く思えたに違いない。後ろ姿を見送った後、受付スタッフに「帰宅した頃を見計らって、電話で訪問診療の希望を確認してほしい」と指示を出した。

翌日、山道を訪問診療に出かけた。診療が終わり帰り支度をしていると、老夫婦と娘さんが「先生、家族はむし歯がたくさんできたのに、二十歳を超えたうちの息子は永久歯がむし歯になったことがない。先日主人とも『不思議だな』と話したんですけど」と切り出した。私はニンマリとした笑みを浮かべ「それは幼稚園や小中学校でのフッ化物洗口のおかげですよ」と言い、そしてむし歯予防に関するフッ化物についてのミニレクチャーが始まった。

24年前に幼稚園や学校での集団的フッ化物洗口の導入を提案した。学校歯科医を担当した小学校は、当時地域でもっともむし歯が多い小学校と認識されていた。フッ化物洗口の成果は著明で、地元のマスコミでもたびたび取り上げられ「日本一むし歯の少ない小学校」として紹介もされるようになった。1999年には全日本歯科保健優良校最優秀文部大臣賞、2011年4月の歯科健診では6年生全51名が永久歯カリエスフリー(むし歯の経験がない)を達成し、日本歯科医師会長賞を受賞した。今、町内で育つ子どもたちのほとんどがカリエスフリーという状況で中学校を卒業している。

そもそも、むし歯予防のためのフッ化物の応用は、水道水フッ化物濃度調整(水道水フロリデーション)から始まった。飲料水中のフッ化物濃度が約1ppmの場合は、むし歯にかかりにくく斑状歯も気にならないという発見が元になり、水道水フロリデーションが開始され、フッ化物洗口を含めた他の方法はその後学者が作り出したものである。フッ化物の応用は自然が私たちに教えたくれたものなのだ。

町には日本一と言われているものがもう1つある。瀬戸内海に面した遠浅浜の父母ヶ浜(ちちぶがはま)に沈む夕日の光景だ。2、3年前からSNSなどに、この浜で撮られた幻想的な写真がアップされると多くの観光客が訪れるようになった。確かに浜の向こうに沈む夕日が刻々と海と空や雲の色彩を変化させる様子は絶景であり、それを背景に潮溜まりに映し出される影が合わさった写真を自慢したいという気持ちもわかる。

約20年前にこの浜が埋め立ての危機にあったことは、拙著『季節の中の診療室にて 瀬戸内海に面したむし歯の少ない町の歯科医師の日常』(クインテッセンス出版)の中でも触れたが、着工されていたら「日本一の夕日の情景」はなかったことになる。人が集まり、周辺に店ができ、夕刻に大型バスが16台到着したという報告を聞くと、その加熱ぶりに心のざわつきさえも感じてしまう。

工事反対の声を上げた時、この浜に足を運んだ高明な学者は「瀬戸内海沿岸に手付かずのこんな砂浜は残っていない。生態系にとっても、生物学的にも非常に貴重です」と断言した。風景の美しさを求めてきた人々に、視覚から得た感動とともに、目の前にある干潟での食物連鎖や重要な役割を伝える場を設けて欲しい。自然から学ぶべきものは計り知れないほどある。

今日も夕日の浜では、多くの人々が足を海に踏み入れ写真を撮っている。足を覆う海水のフッ化物濃度は1.3ppm、実はそれは水道水フロリデーションのフッ化物濃度に近似している。そのことを口にしたい歯科医師の私がいる。