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砂糖の歩んできた道 その7

2020/2/11 デンタル〇〇デザイン

清朝は、アヘンのために国が荒廃した。
しかもアヘン戦争に負け、多額の賠償金を支払った。


さて当時、日本は幕末の混乱期。
その様子を見ていた日本人がいた。
それは、徳川の使節団に同行した桂小五郎(後の木戸孝允)・五代友厚・高杉晋作達であった。

彼らは、上海へ渡りその繁栄ぶりに驚いた。
しかし一方、清はイギリスの属国であることに気がついた。
その荒廃ぶりを見て、このままでは日本も二の舞になることを恐れた。
これが後の明治新政府の誕生につながっていく。

さて、ここで話は砂糖に戻る。
当時、日本ではサトウキビは奄美大島を中心に栽培されていた。(注1)
ここは、かつて沖縄(琉球)に属していたが、後に薩摩藩の一部になった。
薩摩藩は奄美の砂糖をすべて買い上げ、他の者に売ることを許可しなかった。
島々の人々の生活必需品は、砂糖と交換していたのである。
砂糖は誰もが欲しがる"世界商品"。
大阪の堺に運べば10倍の値段で売れた。
薩摩は、これで密貿易をしていたのだ。

さて砂糖は、江戸城内でも最大の贅沢品であった。
当時の第14代将軍 徳川家茂(いえもち)の亡骸は、東京の品川の増上寺にある。
昭和32年(1957年)、戦災で廃墟となった墓地の改葬が行われた。
その際、東京大学の鈴木 尚によって、遺体が精細に調べられた。
家茂は21歳で没したが、軽度のものを含めると31歯中30歯が齲蝕に侵されていた。
なかでも、下顎の第1・2大臼歯・上顎の第1大臼歯は、神経まで達していた。
さらに鈴木によれば、"すべてがひどいむし歯で、たいへんな甘党であった。これがもとで体力が低下し、脚気も悪化し、脚気衝心で没したと考えられる。"と述べている。(注2)

天下の大将軍も歯痛に悩まされていたことがわかる。

では、奄美の人々も齲蝕が多かったのだろうか?
筆者は、それを調べに奄美諸島に赴いたことがある。
この地方には、かつて風葬の習慣があった。(注3)
郷土史家にお願し、案内していただいた。
そこには明治から昭和初期の人々のおびただしい頭蓋骨があった。
しかし、齲蝕はほとんどなかった。
歯石の沈着すらなかった。
仮に歯がなくとも、歯槽窩の存在から没後に脱落したと思われた。
郷土史家に尋ねると、当時サトウキビを食べると、"獄門"・"はりつけ"に処せられたとのことであった。



注1:日本の砂糖,奈良時代に遣唐使により伝わった。1610年に奄美大島で黒糖(精製しない砂糖)が製造された。

注2:鈴木 尚著 骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと 東京大学出版会より

注3:琉球地方の風葬:現在は火葬であるが、明治時代までは共同墓における風葬が行われていた。明治時代に行政から禁止されたが、宮古島で1970年代まで洞穴葬が行われていた記録がある。洗骨を経ての改葬を前提とする墓地石室内での風葬は1960年代までは沖縄全域で主流として残り、現在も離島など一部の地域で継続されているとされる。(Wikipediaより)