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砂糖の歩んできた道 その7

砂糖の歩んできた道 その7
砂糖の歩んできた道 その7
清朝は、アヘンのために国が荒廃した。
しかもアヘン戦争に負け、多額の賠償金を支払った。


さて当時、日本は幕末の混乱期。
その様子を見ていた日本人がいた。
それは、徳川の使節団に同行した桂小五郎(後の木戸孝允)・五代友厚・高杉晋作達であった。

彼らは、上海へ渡りその繁栄ぶりに驚いた。
しかし一方、清はイギリスの属国であることに気がついた。
その荒廃ぶりを見て、このままでは日本も二の舞になることを恐れた。
これが後の明治新政府の誕生につながっていく。

さて、ここで話は砂糖に戻る。
当時、日本ではサトウキビは奄美大島を中心に栽培されていた。(注1)
ここは、かつて沖縄(琉球)に属していたが、後に薩摩藩の一部になった。
薩摩藩は奄美の砂糖をすべて買い上げ、他の者に売ることを許可しなかった。
島々の人々の生活必需品は、砂糖と交換していたのである。
砂糖は誰もが欲しがる"世界商品"。
大阪の堺に運べば10倍の値段で売れた。
薩摩は、これで密貿易をしていたのだ。

さて砂糖は、江戸城内でも最大の贅沢品であった。
当時の第14代将軍 徳川家茂(いえもち)の亡骸は、東京の品川の増上寺にある。
昭和32年(1957年)、戦災で廃墟となった墓地の改葬が行われた。
その際、東京大学の鈴木 尚によって、遺体が精細に調べられた。
家茂は21歳で没したが、軽度のものを含めると31歯中30歯が齲蝕に侵されていた。
なかでも、下顎の第1・2大臼歯・上顎の第1大臼歯は、神経まで達していた。
さらに鈴木によれば、"すべてがひどいむし歯で、たいへんな甘党であった。これがもとで体力が低下し、脚気も悪化し、脚気衝心で没したと考えられる。"と述べている。(注2)

天下の大将軍も歯痛に悩まされていたことがわかる。

では、奄美の人々も齲蝕が多かったのだろうか?
筆者は、それを調べに奄美諸島に赴いたことがある。
この地方には、かつて風葬の習慣があった。(注3)
郷土史家にお願し、案内していただいた。
そこには明治から昭和初期の人々のおびただしい頭蓋骨があった。
しかし、齲蝕はほとんどなかった。
歯石の沈着すらなかった。
仮に歯がなくとも、歯槽窩の存在から没後に脱落したと思われた。
郷土史家に尋ねると、当時サトウキビを食べると、"獄門"・"はりつけ"に処せられたとのことであった。



注1:日本の砂糖,奈良時代に遣唐使により伝わった。1610年に奄美大島で黒糖(精製しない砂糖)が製造された。

注2:鈴木 尚著 骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと 東京大学出版会より

注3:琉球地方の風葬:現在は火葬であるが、明治時代までは共同墓における風葬が行われていた。明治時代に行政から禁止されたが、宮古島で1970年代まで洞穴葬が行われていた記録がある。洗骨を経ての改葬を前提とする墓地石室内での風葬は1960年代までは沖縄全域で主流として残り、現在も離島など一部の地域で継続されているとされる。(Wikipediaより)

著者岡崎 好秀

前 岡山大学病院 小児歯科講師
国立モンゴル医科大学 客員教授

略歴
  • 1978年 愛知学院大学歯学部 卒業 大阪大学小児歯科 入局
  • 1984年 岡山大学小児歯科 講師専門:小児歯科・障害児歯科・健康教育
所属学会等
  • 日本小児歯科学会:指導医
  • 日本障害者歯科学会:認定医 評議員
  • 日本口腔衛生学会:認定医,他

歯科豆知識 「Dr.オカザキのまるごと歯学」では、様々な角度から、歯学についてお話しします。
人が噛む効果について、また動物と食物の関係、治療の組立て、食べることと命について。
知っているようで知らなかった、歯に関する目からウロコのコラムです!


岡崎 好秀

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