Dental Life Design

あなたのデンタルライフを彩るメディア

むし歯の少ない町の歯科医師の日常
シーズン2:桜の季節に

2020/4/13 デンタル〇〇デザイン

夜明け前の静寂が重い。薄闇の中で目を閉じると、水底に深くゆっくりと沈み込んでいく感覚にとらわれた。耳に神経を集中させ音を探すが、人の活動が始まる気配が感じ取れない。新型コロナウィルスの感染拡大は、空の白みとともに重なり合いながら朝を知らせる音たちをも封印してしまったようである。

会議がなくなり、セミナーが中止され、出張の必要がなくなると交通機関を利用する機会は皆無となった。10年以上足しげく通ってきたスポーツジムからも距離をおき、私は休みの大半の時間を、木々の世話や、本とパソコンに向かいながら過ごすようになった。毎年春には幼稚園、学校での歯科健診がある。しかもこの時期には、地元行事、会議、学会、セミナーなども多く、スケジュールを調整していくのが恒例となっている。しかし、この季節には埋まっているはずの医局のカレンダーには空欄が目立ち、スタッフたちの休暇日の印だけが記されている。

新学期を迎えると、歯科医師会などから学校歯科健診、1歳6ヶ月、3歳児健診への対応を知らせる書類やメールが届くようになった。その中には児童生徒との接触の度合いが高いため、歯科健診も当面の間は延期するようにと書かれていた。いつになれば歯科健診が可能になるのだろうかと、しばらくホワイトボードに貼った書類をぼんやりと眺めていた。

健診のことが話題になるたびに思い出してしまう出来事がある。開院して3年目、1歳6ヶ月児健診の場だったと思う。私もまだ30歳代で、ちょうど自分の息子と同じぐらいの子どもたちの口腔内を覗き込み、その母親たちと話し込んでいた。その日の健診がある程度進んだ時、子どもを抱えた母親に寄り添うように3、4歳くらいの男の子が歩いてきた。母親が椅子に座り子どもを膝にのせると、その男の子は立ったまま右手で母親の洋服を握りしめていた。周りの大人たちは声を揃えるように「はい、アーン」という。私が口腔内にミラーを入れ健診を行っていると、突然横から男の子の小さな手がそろりそろりと伸びてきた。小さな親指と人差し指の先が、私のミラーを持つ右手前腕部の体毛を優しく掴み始めた。その動きはめずらしい小さな虫を見つけて、捉える時の動きに似ていた。そして私が「ぼく、めずらしいかい?」と声をかけると、にっこりと笑い返してきた。母親は顔を真っ赤にして「これ、これ」と慌てて、子どもの手首を握りしめた。爆笑、子どもは好奇心に逆らえない。たしかに私の腕の毛は剛毛でもなく、少し長めで撫でごこちは良いかもしれない。

3歳児健診時にも強烈に印象に残る出来事もあった。健診時には必ず、う蝕予防におけるフッ化物応用の効果や安全性についても説明することにしている。ところが「フッ素」、「フッ化物」という言葉を口にすると、突然表情を強張らせる母親がいた。彼女の主張は「とにかく自然がいちばん、人工的なことは体に悪い」という言葉に要約されていた。「フッ素」、「フッ化物」について基本的なことから説明を始めたが、「私の体の中にはフッ素はないし、食べ物や水からも取ることはいっさいない」と言い、取りつく島はないように思われた。後に確認すると、子どもへのワクチンの接種すら拒否しているということを聞き、あの場面で話を切り上げたことが正解だったと、ひとり納得したのだった。実は、学校や幼稚園で実施している集団的フッ化物洗口を希望しない保護者もいて、残念ながらその子どもたちだけが健診の度にう蝕が増えているということも経験している。そんな時、子どもたちの生涯の健康のために、正しい情報を提供するのは専門家の責務、それを理解することは保護者の役割だと再認識するのである。

「緊急事態宣言」が出された翌日、隣町へと車を走らせると峠道沿いの桜は満開で優しい春の風に揺れていた。峠を下り、赤信号で止まると、先月バドミントンの桃田賢斗選手の特集番組の中で登場した記念碑が、左手の坂道に小さく見えていた。その碑に刻まれている「前進」という言葉を思い出し、「今は耐える、前だけを見よう」、そう自分に語りかけてみた。