Dental Life Design

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むし歯の少ない町の歯科医師の日常
シーズン2:こだわり

2020/5/15 デンタル〇〇デザイン

5月の夕方、スマホに見慣れない着信番号が表示されていた。怪げんに思いながら返信すると、訪れたことのある鮨屋の名前が告げられ、「テイクアウトの案内をショートメールで送ってもよろしいでしょうか」と尋ねる。「いいですよ。たいへんですね、頑張ってください」と返したが、ほんの短い会話の中で店主の嘆きと胆気に触れたような気がした。

ひと月の間に日常の情景は姿を変えた。「営業休止」と「テイクアウト」の張り紙ばかりが目につく。「STAY HOME」の言葉に従い、人々は身の回りに楽しみを見つけようとしいて、私も例外ではない。ホームセンターや種苗店に出かけると駐車場には車があふれ、考えることは同じかと苦笑いを浮かべてしまった。

ホームセンターからの帰り道、踏み切りの遮断機の前に車を止め、通り過ぎる列車内を注視するが、人影を見つけることが難しい。開けた車の窓から新緑の風が吹き込むと、ふと27年前の今頃のことを思い出し始めた。

その年、6月4日が診療所の開院予定日だったが、私は5月になっても大学で変わりなく仕事を続けていた。ただ週末には、京阪神と九州を結ぶ寝台特急「なは」のベッドの上で朝を迎えることが多く、目覚めると車窓から新緑の中に次々に現れる踏切と、それが作り出す車の列を眺めることが多かった。実を言えば、診療所の造りや診療環境のこだわりの強い部分は、この流れる風景の中で浮かんだものも少なくない。

まず、診療所の設計において求めたのが、ゆったりとしたスペースの確保だった。私は体が大きく、田舎に育ったせいか肩が触れ合うような状況で長時間を過ごすのが苦手である。次に願望したのが換気システムの充実、その意図に応えるため設計士は、換気設備に詳しい別の設計士に声をかけ対応した。そして当然、床面積が増え、設備の充実を図るとコスト的な代償を払うことになった。

さらにこだわったのは院内感染防止対策の徹底である。当時の一般歯科診療所の消毒・滅菌への取り組みを目にし、また複数の歯科医師が診療チェアー・器材を共有する大学病院で過ごしてみると、消毒・滅菌システムを徐々に変更しながら、院内感染防止システムを理想の形に近づけることは骨の折れる作業であると考えられた。その時すでにCDC(米国疾病管理予防センター)が「ユニバーサルプリコーション」を考案していて、1996年にはさらに質の高い院内感染予防対策として「スタンダードプリコーション」が提唱されたのである。開院当初から、そのような院内感染防止システムをつくり上げることを目標のひとつに設定した。

開院前にタービンヘッド類はもちろん、バキュームやスリーウェイーシリンジの持ち手の部分まで多数購入すると、歯科商店は驚いた。各チェアーに口腔外バキュームを付け、オートクレーブを4台、大型の超音波洗浄器を揃えた診療室で、実際に診療が始まり、さらにディスポーザブルグローブの使用量をみると、私の意図がようやく理解できたようだった。そして取り組みはバージョンアップしながら、数年前にはプラズマ滅菌器を導入することになった。

新型コロナウイルス感染拡大の状況下でも、そんなこだわりのある診療所でスタッフたちは落ち着いた動きを続けている。変わったことといえば、風除室に消毒用アルコールスプレーを設置したこと、待合室の書籍が片付けられたことと、体温計測、スタッフ全員のフェースシールド装着だけである。開院以来続けてきた地道な院内感染対策は、すでに日常のものとしてスタッフ全員の中に強く染み込んでいる。そして広いスペース確保と換気へのこだわりが、ここにきて「三密回避」に役立っていると実感している。

診療室内でいつもどおりの時間を過ごし、自宅や診療所の敷地内に留まることになると、足下の草花に足を止め、鳥の声に振り向き、鳴声の主を探すようになった。芝生には庭石菖(ニワゼキショウ)の群生があり、小さな可憐な花が風に揺れている。モズの若鳥が椿の枝に止まり、メジロのつがいが交代で巣の中で卵を温めているのも見つけた。これまでの日常生活で見逃していた自然の中にある生命力にさらに魅入られる時間が長くなってきた。

初めて目にする貴重な光景に遭遇すると、時間を忘れて見入っていることが多い。そんな時は間違いなく息を殺し、また時には息を止めていて、息苦しさに我に返り、肺炎が発症したかと慌てて何度も深呼吸をしてしまう。やはり新型コロナウイルスを恐れているのだ、私も。