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地域のために警察歯科医ができること―京都の開業歯科医の挑戦 第5回:身元確認に取り組んだあの夜~京都アニメーション放火殺人事件での検視業務~

地域のために警察歯科医ができること―京都の開業歯科医の挑戦 第5回:身元確認に取り組んだあの夜~京都アニメーション放火殺人事件での検視業務~
地域のために警察歯科医ができること―京都の開業歯科医の挑戦 第5回:身元確認に取り組んだあの夜~京都アニメーション放火殺人事件での検視業務~
地域警察署の嘱託警察歯科医として、身元確認活動や犯罪捜査協力などを通じて研さんを積み、また各署の警察歯科医や担当警察官と協力して研修を続ける日々が続いていた。診療をしながらも、さまざまな活動を重ねるたびに、警察署の担当警察官や京都府警、そして京都府や京都市をはじめとする行政や、その他各種団体とも協力体制が築かれつつあった。忙しさも苦にならず、微力ではあるがお役に立てているのだろうか……そんな気持ちも芽生えはじめた。

そして、警察歯科医となって数年経った昨年の夏、あの日は朝からどんよりと曇っていて、今にも雨が降りそうな雰囲気だった。とはいえ、最高気温は30度まで上がる予報、傘の用意はしつつも軽装で診療所に向かった。

午前の診療ももう少しで終わりだな、と思いながら合間の時間にパソコンのニュースに目を向ける。と、「京都で放火事件か」というニュースが速報で流れた。アニメスタジオで火災が起こっているのか……えっ、放火?早く消火されるといいな……という思いで経過を見ていた。その後も確認を続けていると、なんと、悲惨なことに放火による犠牲者が多数出ているという。

その後、沈んだ気持ちのまま午後の診療を終え、夜に開催される会議に向けて準備をしはじめたところで、携帯電話が鳴る。出てみると、京都府歯科医師会(以下、京都府歯)の岡本肇先生(警察歯科・災害対策委員会)だった。

「さっきニュースに出ていた放火事件で多数の死者が出てしまった。府警から要請があったため、身元確認業務に来てもらえないか」という旨の連絡だった。もちろんすぐに行きますと返事をし、急ぎ院内で可能な範囲の準備をし、検視場所へ向かった(ご遺体は警察学校に安置されていた)。

到着して名前を告げると、少し待ってから案内された。天候が悪かったことによる湿気が、昼間の気温上昇にあいまって、冷風機が回っていても館内はたいへんな蒸し暑さだった。そのなかで防護衣やマスク、そしてもちろんグローブも着用して検視業務(デンタルチャート作成)にあたる。身体中の汗腺から油汗が滴り落ちているようだったが、それすら忘れるくらいに、なぜこんなことが起こってしまったのかという絶望感と怒りのほうが大きかった。その気持ちがすべき業務を先へと進ませた。府歯からは7名、他に3名が歯科領域の検視業務にあたった。

犠牲者の大半は20~30代。これからのアニメ業界のことをいつも考え、高い志をもって日々を過ごし、そんななかで今朝も出勤していたのだろう。それなのに今、こうして私たちの眼前に横たわってしまっているのだ。こんなにつらい状況があるだろうか……叫びたいような悔しさのなか、3人1組で検視業務を行い、歯の状況を知らせるための声だけが虚しく響く。

死後硬直が強く、鑑定は困難を極めた。深夜になり、日付が変わっても検視業務は終わらず、翌日にも数名の警察歯科医がご遺体と向き合った。


検視業務を行う警察歯科医(左から、澤田卓男先生、岡本 肇先生)


ご遺体は死後硬直が強く、業務は困難をきわめた

府警は確実な身元確認を行うため、その後もDNA鑑定や司法解剖をおこない、数日後に最終的な身元特定を終えた。今回は建物内を使用している人が限定されていたため、歯牙鑑定は身元確認判断のひとつ、というかたちになった。これがもし、不特定多数の人が出入りするような事件や事故の現場であれば、歯の特徴や治療痕などを書き記したデンタルチャート作成の重要性がより増すこととなる。

ほとんどの警察歯科医は、それを専門の職業としているわけではなく、普段は歯科医院で患者さんの歯を治療しているごく普通の歯科医師である。私のように、数十年と経験をもってはいないことも多い。この事件後、眠れなくなったり、食事を取れなくなったりというような状態になる人もおられたと聞く。そうしたことに対するケアも非常に大切である。

今回の件では、前回(第4回参照)書いたように普段から担当警察官などとコミュニケーションを取ることができていたため、府警と府歯との連携がスムーズにいき、歯牙鑑定を早い段階からはじめることができたように感じた。もちろん、今回のようなことは二度とあってはいけない。しかし突然の事故、事件や災害の際、すばやく協力できる体制を平時にもとれていることが大事であると痛感した。

警察歯科医として、ご遺体を眼前にした時には「間違いなく、早くご家族の元にお返しする」ことがいちばん重要である。もしもの時に備え、自分にできる限りの努力や準備を常にしておかなければいけない、といつも思っている。

この文章を書き上げた直後に、ようやく犯人の体調が回復し逮捕に至ったとのニュースが入った。さらなる真相の解明が進むこと、そして犯人の深い後悔と反省の弁が聞こえてくることを、心より望むばかりである。

(続く)


安田歯科医院ホームページ
http://www.yasuda-dc.com

著者安田 久理人

歯科医師・博士(歯学)
安田歯科医院院長(京都市中京区)
大阪歯科大学非常勤講師
日本口腔インプラント学会専門医
日本歯周病学会認定医

略歴
  • 1998年 徳島大学歯学部卒業後、京都市内医療法人にて勤務
  • 2003年 医療法人弘成会 牧草歯科医院(京都府)にて勤務
  • 2005年 安田歯科医院開院。現在に至る
  • 京都府歯科医師会 警察歯科・災害対策委員会
  • 京都市中京歯科医師会副会長
  • 中京警察署担当 警察歯科医
  • 京都市立御池中学校 学校歯科医

開業医として、歯科医院で歯周病治療・インプラント治療を含めた一般治療に従事しながら、地域の学校歯科検診や歯科保健相談などを行う。 東日本大震災時、厚労省から歯科医師会を経て要請された歯科医療救護活動に赴いたことがきっかけとなり、警察歯科の分野に興味をもつ。 現在、所轄警察署の担当警察歯科医を委嘱され、依頼をうけた検視(歯)業務を行っている。 京都府歯科医師会の警察歯科・災害対策委員会に委員としても参加し、これからの警察歯科医(災害を含む)のあり方について模索する日々を送っている。

安田 久理人

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