Dental Life Design

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むし歯の少ない町の
歯科医師の日常
シーズン2:
ファクターX

2020/7/14 デンタル〇〇デザイン

7月初め、テレビの画面には九州での大雨の様子が写し出されていた。午前の診療を終え大阪への出張の準備を始めたが、すぐに手を止め見入ってしまった。私は長崎大水害時に濁流から這い出したのだが、40年経っても恐怖感は頭の中から消え去ることはない(著書『季節の中の診療室にて 瀬戸内海に面したむし歯の少ない町の歯科医師の日常』の中に「雨」として記載)。豪雨をもたらす地球温暖化が気がかりだ。

梅雨に入り曇りと雨の日が続いていたが、父母ヶ浜に寄り道をしてから駅に向かうことにした。車を止め浜の入口に立つと、錫色の雲の切れ間から天色が顔を覗かせ、光の筒が海面を照らし、幻想的な風景をつくりだしていた。数分経った頃、突然一匹のアオスジアゲハが現れ、私の周りを跳ねるように飛び回った後、小石の混じる砂浜面で吸水行動を始めた。そっと近づきスマホのシャッターを押す。チョウの吸水行動には、体温調整説と栄養成分補給説があることを知る人は意外に少ない。しかもこの行動をするチョウのほとんどがオスであることは、さらに親近さを増す要因で、風に揺れる美しい羽の色をしばらく眺めていた。そして「お互い体には気をつけよう」とささやき、別れを告げた。

結局、チョウと過ごした時間のせいで予定の電車には乗り遅れることになった。在来線も新幹線も乗客はまばら、新大阪駅に降り立っても人波は切れ切れ、予定どおり用事を終えると定宿のホテルに向かった。

すべては順調に進んでいた。ところが帰路で思わぬ状況におかれることになった。岡山駅から瀬戸大橋線「マリンライナー」に乗り換え、1両目の真ん中の座席に座るといつものように本を読み始めた。乗客は少なかったが、プラットホームには騒々しい十数人の団体がいて、なんとなく嫌な予感はあった。出発時刻間近になると、この団体が私の座席前方すべての座席と後方の何席かを占拠した。男女、数人の子どもに高齢者がざわざわと座席を入れ替わる。やがて電車が動き出した。

すると各々がシャンパングラスを手に持ち、シャンパンの封が切られ、乾杯の声の後、「マリンライナー」1両目のパノラマ席と2階席、そこへ続く階段と通路が一気に宴会場になった。私は呆気にとられた。公共の交通機関の中で飲み会を開催する、そのこと自体が許されることではない。世の中が新型コロナウイルス感染拡大防止に取り組んでいる最中、昼間に、しかも高齢者、子どももいる。「公共交通機関で宴会はないでしょう。この時期に何を考えているのですか」と近くにいた男性を叱責した。小さな声で「すみません」と言うものの、状況は変わらない。別の男性に言っても「僕に言われても……」と態度を変えようとしない。席を移動し座っていると、対応にあたった車掌が報告に来て「お客様、私は勤務して40年になりますが、これほど酷い乗客は初めてです。ご迷惑をおかけしまして申しわけありません」と言う。こんな行動をとること自体、日本人として恥ずかしいというのが、私たちの一致した意見だった。憂う1日となった。

その週明けには、新学期の学校歯科健診の実施予定となっていた。学校を訪れると子どもたちは行儀良く間隔を空けて列をつくっていた。健診の直前までマスクをつけ、外すのを忘れたまま口を開けようとする子どももいて、思わず笑ってしまった。山中伸弥教授が日本での新型コロナウイルスの感染拡大が緩やかで、死亡者が少ない理由を「ファクターX」とよび、それを明らかにしようとしている。高い衛生意識や、生活文化、BCGワクチンなどなんらかの公衆衛生政策を含めさまざまな要因が挙げられているが、この子どもたちの行動を見ていると、日本人の真面目さも少なからず要因になっていると感じる。そして子どもたちの健診をしながら、それとは対照的なマリンライナーの宴会団体の姿を思い出していた。

「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」。野村克也監督が好んだ江戸時代の肥前国平戸藩第9代藩主・松浦静山の言葉だが、勝利をもたらした「ファクターX」はわからずとも、負けの原因は明らかにある。あの団体客はそれを理解できないかもしれないが、長いウイルスとの戦いが続く今、「負けに不思議の負けなし」、医療従事者を含め多くの人々がこの言葉を心に留め日常生活を送ってほしい。

そして地球温暖化にストップをかける「ファクターX」が登場することも強く願っている。