Dental Life Design

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むし歯の少ない町の歯科医師の日常
シーズン2:ぶどう

2020/10/16 デンタル〇〇デザイン

夏休みになると、来春卒業予定の歯科衛生学科の学生が診療所の見学に訪れる。夏が過ぎ青空に秋雲が漂い始めた頃に、今年最後の学生がやってきた。診療の開始前に、設備や消毒滅菌のシステム、そのこだわりなどについて説明した後、縦長く続いている廊下に沿って、医局と図書室を覗き、そしていちばん奥の院長室に誘導した。

私のテリトリーである院長室には、机の上に本と書類の小さな山があり、その横のスチールキャビネットの開き戸には、数枚の写真がマグネットで止められている。その前に立ちながら、学生に「カイスの輪(Keyesの輪)って知ってるよね」と尋ねると、予想どおり「はい」という自信に満ちた声が返された。「そう、宿主(歯質)・細菌・食事という3つの因子が、重なり合った部分でう蝕が生じるということだけど、それに時間の因子を追加した人は誰でしょう」と続けた。「ニューブラン(Newbrun)さんですか」という即答に、ついうれしくなって「おっ、勉強してるね。ニューブラン先生がこの人」と言い、写真の一枚を指差した。そこには私の隣で笑顔を浮かべるアーネスト・ニューブラン先生の姿があった。

2005年7月13日から16日、米国・シカゴの米国歯科医師会本部で、20世紀の10大公衆衛生事業の一つとされる「う蝕予防のための水道水フッ化物濃度適正化(ウォーターフロリデーション)の60周年記念祝賀行事」が開催された。恩師からお誘いをいただき、私はスケジュールを調整して単独で渡米した。ホテルでのダブルブッキングというアクシデントにあい、日本からの参加者たちと会場で合流した時にようやく安堵を覚えたのだった。

14、15日に行われたシンポジウムには、米国内外から歯科専門家、研究者、公衆衛生担当者、地域の指導層さらに法律関係者までが参加していて、普及拡大に努力してきた人々の情熱があふれていた。そして幸運なことに日本から参加した私たちは、シンポジウム終了直後にニューブラン先生の特別講義を聞くという幸運に恵まれた。

その講義の中で特に印象に残ったスライドがあった。一つめはフッ化物を適正に摂取した場合には「歯の萌出前効果」と「歯の萌出後効果」があり、歯の萌出前後を通じてフッ化物を適量摂取するとことで最大の効果が現われることを示したものだった。

そしてデンマーク、オランダ、ドイツの歯科医師たちは、政治的理由などからフロリデーションに成功したことがないこと、歯科医師過剰のため多数の歯科医師が徹底したフッ化物療法の組み合わせにより予防処置を行っているために、欧州の研究者はフロリデーションに不熱心であると語られた。その時のスライドはイソップ物語の「すっぱいぶどう」の挿絵で、鮮明に脳裏に焼き付いた。欧州の歯科医師たちの水道水フロリデーションに対する姿勢はこの話のキツネと同じだと言い、フロリデーションという「ぶどう」に手がとどかないから、「きっとすっぱい」と自分を納得させ諦めていると指摘した。うがった見方が得意な私は、その時ふと「ぶどう」というものを最初から見ようとしない歯科医師もいるのではと思ったのだった。

今年の新型コロナウイルス(COVID-19)の感染拡大により、地元の学校などで集団的フッ化物が中断すると、このまま再開されないのではと心配にもなった。もしフロリデーションが実施されていれば、疫病が流行してもう蝕の発生は抑制されたままで、こんな心配など無用である。感染拡大によりフロリデーションのもつ公衆衛生的特徴が再認識されて、新たな活動が始まったという事例がニュースとして流れ始めている。例えばワシントン州の5大都市の中で唯一フロリデーションが実施できていなかったトークン市では、COVID-19感染拡大をきっかけにフロリデーション導入が決定したという。

食卓に置かれたぶどうの一粒を手に取ると、また「すっぱいぶどう」の話を思い出す。日本の歯科保健・医療の専門家は、「フロリデーション」という「ぶどう」の本当の姿や形、味をわかっているのだろうか、あえて見ようとしないのだろうか、それとも「すっぱいだろう」と諦めているのだろうか。手に入れば「おいしい」ことは、75年間にわたり世界中で十分証明されている。